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平安京テレストロイタス








花の都は雨曇。



星一つない模糊の夜空を、川のせせらぎが映し出す。
降っているのか否なのか、もやけた霧雨が川畔の木々の梢を濡らす。
────されど映る光の群。
街灯、ネオンに立て看板、いずれも人の燈りの所業。

喚く若者。
客引きの声。
制服姿の少女が座り、
スーツの男が声を掛ける。

響く罵声と酒気の香る盛り場の町。





────カタ、ピシ、キイ。


手押し車の老婆が一人。
曲がった背中にショールを掛け、
ベイズリーのスカーフを被り、
古びたパンプスを引っ掛けて、
少し離れた川沿いの歩道を、手押し車を軋ませながらえっちらおっちら歩いていく。


「うわ!?…………いってェ」

老婆が声も立てずに路上へと転げ落ちた。通り過ぎる若者達の足に引っかかったのだ。
起き上がろうとする老婆の乳母車を、若者の一人が蹴り飛ばす。
老婆のものらしいサングラスがカラリと転がった。
「邪魔だろババァ脇歩けよ脇!!ンなもんで道の真ん中歩くな、」

若者の声が詰まる。



何かを喚きながら若者達は逃げていった。
ようやく起き上がった老婆はサングラスを拾って掛け、それから乳母車を起こし始める。
────濡れたスカーフから顔が覗く。
酷い鷲鼻。
白粉めいた白い肌。
唇には紅がさしてある。
其の異様の顔に、あの若者は怯え逃げていったのだろうか?

老婆の後ろを、何かが走った。

────ようやく乳母車を起こした老婆が背後を振り返る。
ソレは傍の植え込みの中へ入った。
それほど大きいモノでは無い。ネコだろうか?
カサカサと音を立てながらソレは植え込みの中を走っていく。
暫く潅木の影を遠ざかった後、ガコリと音を立ててソレの気配は何処かへ消えた。

車を押し押し、老婆が音のあった場所に近づく。
茂みの上から覗き込んだ。

────排水溝のフタがあった。
何故か、裏返しに嵌っていた。






突然悲鳴と轟音が沸き起こった。
曖昧漫ろな人々の視線が一斉に一方向へと向く。

老婆の居る辺りから一ブロック先。
道の左側の風俗店の雑居ビルが、ネオンを明々と瞬かせながら道側へせり出していた。
────いや、正確には”傾いて”いた。
雑居ビル全体が道の側へと傾いて、上階が道の上へとはみ出ているのだ。

ギシギシと嫌な軋み音を立てながら更に傾く。
建物自体が歪んだ為か窓ガラスが割れ、中から様々なものが路上へと堕ちてくる。
本、
机、
ロッカー、
ソファー、
観葉植物、
丸椅子、
風呂桶、
そして慌てた半裸の人間。


再び轟音が起こったかと思うと、今度は単体側に傾き始めた。
────違う。これは沈んでいる。
雑居ビルが少しづつ地面の下へと沈んでいるのだ。
よくよく見れば、ビルの立っている辺りは地面から泥濘が湯水のように湧き出ている。

雑居ビルはみるみる背が低くなる。
沈み込みに引っ張られ、耐えかねた電線がバツンと切れた。
跳ねる鉄縄に襲われた野次馬の悲鳴。
火花が散って雑居ビルのネオンが消える。
沈みかけの三階には未だ人が居たらしく、嫌な悲鳴が響いてきた。


そんな阿鼻叫喚も泥の中へと絶え消えて、
少しばかり沈むスピードが速まったかと思うと、

────────ビルは、地面の中へと飲み込まれていった。













騒然とした現場から離れた、先程の川沿いの歩道。


白い面の老婆はその光景を眺めながら朱の端をくいと上げ居り、

裏返しの排水溝の向うからは、幾つかの小さな視線が騒乱を見つめていた。











「お久しぶりです、田尾教授」
「ん?おおー君かね久しぶり久しぶり!元気にしてたか?」
「ええ、まあ一応」


都内某所、怪奇雑誌『クリプトロジー』の編集部から程近い喫茶店。

雑誌記者が声を掛けたのは、
隅の喫煙席でノートPCを開いて何かしている変なオッサン。
────もとい、以前取材させてもらった地学博士。田尾教授である。

「野阪先生もお元気ですか?」
「何で私があの男の近況を知っとかねばならん。君も何で私にそんな事を聞いてくる?」
「…………いや、共同研究者でしょうに」
「あいつ最近研究成果から京都の私大に席を得てな、んもー調子に乗ってていかんぞ」
どうにも、相変わらずのトム&ジェリーであるらしい。

「にしても待ち合わせに編集部は使えなかったのかね?応接セットあったろう確か」
「いや、それにはちょっと込入った事情がありまして」
────別に込入ってはいなかったりする。
只単にスミ先生が編集部で他の作家も交えてウワーイヒャッホウしているだけなのだが。
「ま、いいわ。とりあえず仕事の話しましょか」
「田尾教授、イントネーション変ですよ?影響されんの早いですって」
「ん?おう、私は元々関西の出身なんでな。ああー素の喋り方に戻っていかん」



半年ほど前だったか。
田尾教授ともう一人の野阪先生に始めて会い、そして遭遇した事態。
伝承通り山が蠢き、咆哮し、歩み去ったという怪現象。

────”磐古岳事件”。

あれ以来二人は”モグラの眼”を使って日本中の地下を探索し回っているらしい。
表向きの目的は『地質調査による日本の地下地図の作成』。
ちなみに”モグラの眼”とは、
田尾教授らの開発した最新鋭探査機器で振動波により地質状況を観測し
それを判り易く視覚化できる観測装置である。
その研究の意義も認められたらしく大学から相当な予算も出ているのだが、
本当の目的は…………



「…………地底怪獣の探索、上手くいってますか?」
「ん?んん?んっふっふっふ〜ん」
何だか妙な気色悪い笑い方をしてらっしゃる。え〜と、もしや、まさか?
「…………見つけたんですか?」
「ふふふん、まあ先ずは此方を見てくれたまい!」

開いていたノートPCがこちらに寄越された。
”モグラの眼”の観測結果だ。あれから更に改良したのか動画になっている。
ウインドウの中に鮮やかに色分けされた地下地図が映し出されていた。その中を、

────移動する何か。

同じ色をした地下地図の部分を、大きな影が変形しながら動いていた。
「この地層は地下水を含む帯水層だ。ここに、こう沿って移動していたらしいな」


約三十秒程だろうか。影は画面外へと消え、動画も止まった。
「…………これ、何処で?」
「京都の伏見辺りだよ。地下水調査の名目で調べていた時にまー偶然にも映った訳」
何で地下水調査?と思ったら、その周辺で地下水の異常が有ったらしい。
住民が云う事には急に枯れたとか、溢れたとか、はたまた味が変わったとか。
「この後半日ほど追跡したが結局見失ったよ。あんな騒ぎが無ければねぇ」
「騒ぎ?」
「知らんか?これの近くの向島であった小人騒ぎ。知ってると思ったが」
「……────ああ」
それか。
その事か。
知らない筈は無い。


「ま、取り合えずコレを記事にするかは君に任せる。詳細はメールで送っとくからな」
「お願いします。…………あ、じゃあそろそろ」
「もう行くのんかい?忙しいな君も、貧乏神でもくっ付いてるか?」
「別に金には困っちゃいませんって。それでは」
挨拶もソコソコに雑誌記者は勘定書を手に取り、会計で領収書を貰う為に席を立つ。

何せ、キングボンビー以上の疫病神がお待ちかねだし。

「そうそう、この影の進んでいた方角だがね────…………」
去り際に、田尾教授が声を掛けた。


「京都市方面へと向かっていたよ」











洋館のブザーを鳴らす。

暫くすると木製のドアが重そうに開き、家政婦だと聞いている老婆が出てきた。
「…………ああ、お嬢様ですね?お嬢様ならお庭です」
「ああ、はあ」
未だ拭えない違和感を纏わり付かせながら、雑誌記者は老婆の後を付いていく。


────先日の円盤騒ぎの一件で、変人女の住居は吹き飛んでしまった。
最初はどこかのホテルに寝泊りしていたらしいが、少ない所持金では長続きせず
結局この自分所有らしい洋館に居る事になったのである。

……この洋館は、変人女の生家ではないだろうかと雑誌記者は思う。
確証は無い。
しかし、あの家政婦のツネコさんの態度といい、変人女の態度といい、
そう感じられてならないのだ。
彼女自身は、この洋館を酷く嫌っているらしいが。

理由は云わない。
だから聞かない。多分彼女の現在の境遇と関係があるのではないか。
そう思う。



「お、やほう!久しぶりィ」

庭ではジャージ姿のお嬢様が穴を掘っていた。
つかなんだそのどどめ色の苗字入りイモジャーは?今時高校にも無いぞそんなの。
「んー?買って来た。名前は手書き、イイでしょ」
「どんなコダワリだよ」
聞けば庭にプレハブ小屋を建てるらしい。その整地をしているのだそうだ。
彼女はそこで寝泊りする予定との事、そんなにこの屋敷で寝るの嫌なのか?
「んー、前みたいにイイ所無くってね。どっかいい不動産屋紹介してくんない?」
…………イイ所だったのかあのもりそばワールドは。

兎に角爆撃後の地雷原と化した庭から室内に入り、本題に入る。
「ネタあげるからカネおくれ?」
「単刀直入にも程があるぞ?」
「前の部屋が燃えた時に通帳とか印鑑まで燃えちゃって手持ち無いのよ、入用なのに」
何でプレハブ建てられる余裕があるのかは聞かない事にした雑誌記者。
「で?どんなネタだ?正直ヨタ話だけなら腐って臭って不法投棄する位ウチにゃあるぞ?」
「OK解ったじゃあカネだけよこせ」
何という外道、これは間違いなくカツアゲ……(^o^)




しょうがないので話を聞くだけ聞いてみた。

────お題は、『謎の地下都市』。
何処かは日本の都市の何処か、何時かは知らぬが最近の何時か、
友人の知り合いの話。
ある時、地下工事中にドリルが引っかかり、奇妙な空間を掘りぬいた。
そこで労働者達が見たものは、


「……────小さな、”街”?」
「そ」

それこそ人形遊びにでも使えるような小スケールの街が有ったらしい。
覗いてみれば何でも有った。
車も、街路樹も、信号も。ビルの中には椅子も、机も、果ては鉛筆まで有ったそうだ。
只一つの違和感は、ソレらを使う人影が居なかった事。
荒れ果て、埃が積もり、もう何年も使用されていない風だったらしい。
見上げれば天井は丸く、上方にライトらしきモノも見つかった。
その小さな地下都市は相当広かったらしい。
照らした懐中電灯の光の反射が見えなかったそうだ。
しかしそれ以上の調査はされず引き上げとなり、穴は埋め戻されたという事だ。

「何で?」
「さあ?でも工事を担当した建設会社は数週間後に潰れたらしいけど」
「オチは?」
「オチが無いのが怪談よ。さあカネよこせーゼニよこせー」


結局、押し負けて記事にして載せる事を約束させられてしまった。
「ありがとさん♪まーお礼は今度ちゃんとしたげるから覚えときなさい?忘れるかも!」
どう見ても忘れる気まんまんです本当にありがとうございました。
「何なら明日でもいいわよん?どう?」
「明日も仕事、明後日も仕事。何かして貰うヒマなんて無いって」
「何?ビンボーヒマ無し?」
お前も云うか!!



原稿料の振込みの期日を伝えて、その日は引き上げと相成った。
本当に最近は忙しい。
編集長から新しい連載の担当も任され、随分ヒマが無くなっている。
そして、実は雑誌記者は明日からもっと忙しくなのだ。

京都に出張である。
先に出た話題『向島の小人騒ぎ』と、ついでに京都オカルトスポット特集取材が目的。
とりあえず、変人女には意図的に隠していた。
普段から何かと編集部に入り浸る彼女の事だ、自分も行くと云い出しかねない。
彼女の相手をするだけで疲労度は二倍三倍、これ以上疲れたくは無いし。


ふと、昼からメシを食ってない事に気付いた。
サイフを開けて愕然とした。
フクちゃんもイナくんもナツメさんも一人も居ない。
下ろすのを忘れていた。もうこの時間、開いているATMもこの辺りには無い。





ふと思い出すフレーズ一つ。
”働けど働けど我が暮らし楽にならざり、凝っと手を見る”

どーみても『ビンボーヒマ無し』と手相に書いてるようにしか見えない、雑誌記者であった。










磨きぬかれた長い板張りの廊下が続く。

外では、新緑の松と白州の石庭がコントラストを織り成している。



それらの見える、井草の臭い立つ青畳の上に影二つ。
並んで胡坐をかき、座禅でもしているかのように微塵も動かず座り居る。
二人とも、どうやら石庭を眺めているらしい。

「────迷うておりますか」
一方が聞く。
「────迷うてはおりませぬ」
一方が応える。
「御坊、只嫌なのです。主無けれど千年王城、其処にあれらを向かえ遣うなど────」
「貴方は未だ、あれらをわれらと同じと思うておられるか?」

遠くで雲雀の鳴く声が聞こえる。
「あれらは犬と同じ、蝗と同じ。禽獣蟲魚が相争うを我らが咎めて如何する?」
「犬が人に喰らいつき、蝗が稲を食い荒らすならば咎めもしましょう。それが心配なのです」
「心配ですか」
「心配です。……、否────もう既に」
「木屋町の一件ですか。文書き達が随分と騒いでましたが────」
「皆乱れた風紀の元凶への天罰であると抜かしておりましたよ、事情も知らずに」


「御前」
何時の間にか、板張りの廊下に女が正座していた。
纏めた髪に眼鏡をかけ、ぴっとした紺のスーツにタイトスカートを履いている。
「蓮潟か。どうだった」
「矢張り封鎖地区Sー15からの埋設物流出があったとして、活動を活発化しています」
「”埋設物”か…………。で、今回は」
「警戒態勢は第四種、実害が出ているので此方にも協力の要請が」
「やはり、”埋設物”の仕業と見たか」
「はい。地盤の液状化という特殊な現象からして、何らかの兵器獲得の可能性が有ると」
「困ったものだな」
「はい。後、外務省からもこの件に関して問い合わせが有りました」
「何と?」
「事態把握の為にイリーガルの局員を向かわせると」
「…………全く、有象無象が群がるか。了解したと伝えておけ」


御坊と呼ばれた男が御前と呼ばれた男に振り返った。
よくよく見れば紫の僧形、皺だらけのにこやかな顔が此方を見ている。
「好きにやらせなさい。あれもあれらもそういうもの、そうやって付き合って来たのです」
「そういうものですか」
「そういうものです」

「────────、失礼」
蓮潟と呼ばれた女性が立ち上がり、廊下の向うへと隠れた。
携帯電話に着信があったらしい。暫く話した後、こちらに戻ってきた。
「御前」
「何だ」
「新たな動きが有ったようです。再度、木屋町のような事態も可能性として有りうると」
「────何?どういう事だ」
「北区方面で”埋設物”の目撃多数確認、現在確認中との事です」




松の枝先から、啼いて飛び立つ鴉が一羽。







雑誌記者の目前の京都は、はっきり云ってうらぶれていた。


といっても別に某仏大統領の受け売りではない。
目の前に拡がるのは田んぼ、田んぼ、また田んぼ。
これで古びた農家でもあったらそれなりに風情が有ろうというものだが、現実は非情だ。
少し行った所には新興住宅地。
その向うには巨大な郊外型ショッピングモール。
更にどうも自動車の音が絶えないと思ったら、近くにインターチェンジが有るらしい。
折角京都くんだりまで来たというのに。これでは、
「────そこらへんの田舎じゃねーか……」

無論京都市内ではない、伏見の外れ、向島の周辺である。
雑誌記者、出張の真っ最中。

ここで数週間前に起こり、数日前に地方新聞に載り、スミ先生が目ざとく見つけて、
「Go!Go!GoGoGo!!ネタは熱い内にプゲラッチョ!」
と意味不明な事抜かしやがった事件が、件の小人騒ぎである。



早速その辺をゆったり歩いていた老婆を捕まえ、話を聞いてみる。
「んー?あああれなあれなー。えらいこと子供らが騒いどったわー」
…………実はこのおばあちゃん、ヒマだったらしい。結構詳しく話してくれた。





数週間前の連休中。

今時の子にしては珍しく、近くの小学生達が田んぼの中を走り回っていた。
理由を聞けば、『小さいおっさんが居たから捕まえる!』だったそうである。
かなりの人数の子供が目撃していたらしい。
道を横切るのを見たり、畦道に座る姿を見たり、草群の中を走り回っているのを見たり、
縁側の窓から覗いてるのを見たり、屋根裏や廊下を走る音を聞いたり。
無論大人達は他愛もない子供の噂と取り合わなかったのだが────

────数日前。即ち地方新聞に載った事。
何と、子供たちの目の前で”小人”が轢かれたというのである。
轢いたのは、この辺りでは見慣れない白い大型トラック。
更に奇妙な事に、トラックから何人もの白装束の人間がわらわらと降りてきて
”小人”の死体を回収、アスファルトの血痕をホースで洗い流し、
あらゆる証拠を隠滅して、
呆然と見守っていた子供たちを尻目に悠然と立ち去ったそうだ。





「ホラここ、この辺りな」

老婆がわざわざ現場まで連れてきてくれた。
当時、先生や警察に子供達が真剣に説明していたのを覚えているそうだ。
「ネコか何かって可能性は無いです?」
「さー?センセはそうやないかって云うてたみたいやけど?」
「ふぅ………ん」
雑誌記者も、その”小人”の事故現場に立ち、見回してみる。
確かに血痕一つ無い。まああれから雨でも降っただろうし、残った方が珍しいが。

────視線の端に、妙なものが入った。
「これは?ちっちゃい祠みたいですけど」
「ああそれな?”ひざり”さん。田んぼの神さんお祭りしとるけど、ボロいやろ?」
確かに随分ボロい、というか壊れているが。ヒビが入って潰れている。
「うん、”ひざり”さんこの辺にようけおるよ?でも全部なんでか壊すやつがおってなぁー」

壊れた祠に寄って詳しく観察してみた。
石造りの祠と思ったがどうも違う。かなり古いがどうやらコンクリート製らしい。
更に押しつぶされたとか薙ぎ倒されたといった感じではない。打ち壊されていた。
しかも何故か、基礎部分から。

そして、壊れたコンクリの隙間に何か茶色いシミが見えた。
────血痕か?
とりあえず削ってみる。乾いているらしくポロポロと剥がれる。
付き方からして祠が壊された後に上から付着したらしい。
────もしや、これはすぐ脇で轢き殺された”小人”の血液では?

「どしたんな」
「え、いえ何でも」
そう云いながら、雑誌記者は手持ちのフィルムケースの中に剥がれたシミを入れる。



近くのヨモギの草群が、かさりと揺れた。







今日の泊りは近所の安い民宿。

明日から京都市内に入るが、経費の都合上あんまり高い所に泊れないのは同じ事だ。
ヤレヤレと溜息交じりで自分で布団を敷いていると、携帯がかかってきた。
見たことの無い番号。誰だ?
取り合えず出てみる。


「…………やあ、久しぶりだね」
聞いた事のある声。覚えてはいるのだが思い出せない。確か…………
「ああすまん、野阪だよ」
「────野坂先生!?」

一昨日東京で話した田尾教授の共同研究者、なおかつ犬猿の仲の野阪先生だった。
「どうしたんですか?ああ、そういえば先生も京都の…………」
「ああ、今は伊井館大学に席を置かせてもらっている。そこから掛けてるんでな」
「成る程。おめでとうございます」
「ん?んん、ああ。別にいいよ」

カタ、ピシ、キイ。

「…………先生?」
「ああ、ところでだ。明日、話出来ないかね?」
「は?」
「ええと、あれだ。今京都で取材とやらしてるんだろ?私に何か協力できることがあれば」
「え?いや…………何で私が京都に居るって」
「えーと、うん、田尾教授から聞いた。編集部で聞いたって。どうかね?」

カタ、ピシ、キイ。

「────まあ、ご協力頂けるならありがたい事この上ないですが」
「うん、なら明日。午後位ならいつでもいいから、大学に来てくれんかな?」



────────結局、明日野阪先生と会う約束になってしまった。
暫く会っていなかったせいか、話し振りに違和感を感じたのが疑問だが。
まあ何か面白い話でも仕入れればよしとしよう。

カタ、ピシ、キイ。

先程から妙な軋み音が気になるが、空調の関係だろうか。気にしてもしょうがないが。
明日も早い、寝よう。
消灯する。





カタ、ピシ、キイ。



カタ、ピシ、キイ。



窓の向うを、やけに小さな人影が走った気がした。
猫よりも小さい、鼠のようにしか見えない、20cm位にしか見えない人影。
車のライトの加減だろうか。



カタ、ピシ、キイ。


カタ、ピシ、キイ。



────────眠れない。
どうやらこの軋み音、窓の外から聞こえているらしい。室外機の変調か?にしては……
たまらず跳ね起き、ガラリと窓を開けて外を見た。


街灯の下で、手押し車の老婆が此方をじっと見つめていた。










翌日、京都市内へ電車で向かった雑誌記者。
ようやく古都らしい風景を目の当たりにする事となった。


降りた京都駅は確かに歴史など微塵も感じられない現代建築の塊だったが、
眼の端々に舞妓さんのポスターだの、どこぞの寺の宣伝だのが入ってくる。
キヲスクにはちゃんとおたべが売っていた。

タクシーに乗って伊井館大学とやらに向かう最中にも、五重塔やらが過ぎていく。
ようやく、京都に来たという実感が湧いてきた。
心なしか運ちゃんの運転も軽やかだ、と思ったら、
「あれ?え〜……、あーこちら3号車、伊井館大学て北区のどの辺でしたっけどうぞ?」
おいおい。




どうも伊井館大学というのは最近創立された大学らしい。
校門前に付いた後、道に迷った運ちゃんに丁寧に謝られてしまった。
いいですいいですと割り増しっぽい運賃を払い、雑誌記者は校門の前で降りた。

────見た目大学というより、何処かの高校とか研究所といった趣。
大学名の書かれた校門がなければ誰も大学と思わないかもしれない。
只、校門前にコンビニ・ファーストフード・¥100ショップの『城下町』が並んではいるが。
「……うん?」
懐で携帯が震えていた。嫌な予感がしたので、着信が誰かだけ確認する。

────────変人女だった。

「もしもし?」
「こら────ッ!!何であんた京都行ってんのよ!!そゆことは先に云いなさい!!」
「何で云わにゃならんのだよ。お前には関係ない俺の仕事だぞ?」
「関係有るわよ!折角編集部に遊びに行ったのにスミ先生に捕まっちゃったじゃない!」
そらお前が悪い。
「もーおかじーのエロゲ観賞とか初体験告白大会とか始めるし散々なんだから!!」
…………何やってんだスミ先生。
「兎に角用事が済んだらとっとと戻ってきなさい!この埋め合わせは絶た」
プチ。はいしゅーりょー。
京都くんだりまで来てスミ先生と変人女に悩まされたかない。
用心して着信拒否に設定して、と。




事務室でアポの確認を取り、野阪先生の居る研究室とやらへ向かう。
スリッパに履き替え、ペタペタ鳴らしながら廊下を進んだ。

────静かだ。

午後の大学構内では、もう授業の終わったらしいヒマそうな学生がうろついている。
窓から見上げれば、空は灰色の雲に覆われていた。雨でも降るのだろうか?
校門の方へ視線を下ろす。
白い大型トラックが入って来るのが見えた。
誰も気にも留めていない。何かの搬入でも有るのだろうか?

目的の部屋に近づくにつれ、段々廊下にモノが置いてあるようになってきた。
スコップやら土木機材やらが有ると思えば、古ぼけた鉱物標本らしきモノも転がっている。
それらを掻き分け、跨いで進む。
「っと、うおっと」
誤って金属のバケツをガラランと蹴飛ばすと、驚いたのか小さな足音がパタパタと逃げた。
鼠だろうか、猫だろうか。

────更にその奥。

建物の一階の一番端。
ガラクタの山の奥にある名前の無い部屋。
事務員の案内では、確かココが目的の研究室の筈である。
今雑誌記者の目の前に有るのは、木製のオンボロ引き戸だった。
良く見れば小さな札が掛かっている。
『火元責任者 野阪竜夫』
「…………────何ちゅう所にあるんだよオイ」



引き戸なんで違和感があるが、一応ノックしてみる。
────────返事は無い。
もう数回ノックしてみる。
やはり返事は無い。
居ないのかと思いながら扉に手を掛けると、カラリと開いた。

そっと部屋の中へ入る。
「野阪…………センセ〜?」
部屋の中は廊下より更に雑然としていた。
もう通路の両側から山積みが迫っている。
木製の棚やら変な金属棒を掻き分けながら、更に奥へ────
窓辺にスチールの古めかしい事務机と、その前にソファと応接用のテーブルが有った。
いずれも本やらファイルやらノートPCやらが山のように乗っかっている。
その山の向うから、

「…………ああ、やあ久しぶり」
野阪先生が顔を出した。

「あ、お、お久しぶりです」
「うん、良く来たね。ささ座りたまえ、コーヒーでも入れようか?」
「あ、ども」
そう云いながらも座る所が無く躊躇していると、野阪先生がファイルの山を除けてくれる。
「?何かミョーに親切ですね」
「ん?そうかね?久々だからなぁ、ハハハ」
妙に上ずった笑い声を出した後、野阪先生はインスタントらしきコーヒーを出してきた。


「野阪先生、どっか身体痛めました?妙に猫背ですね」
「ん?ああ、いや昨日から肩がえらい凝っててな、まあ許してくれ」
姿勢の良し悪しなぞ知ったこっちゃないが。肩って痛いと猫背になるんだっけ?
「それよりもだ。あー、雑誌の取材協力の件」
「ああ、そうでしたね。一体どんな話です?」
「田尾君が云ってたと思うが、あれだ。伏見地下の移動”物体”の話だよ────」

────────要するに、あの影の正体に関する考察だった。

野阪氏曰く、
あの”物体”は”モグラの眼”の観測結果から見て、流動体の様に移動している。
しかし”物体”そのものの反応は個体と液体の反応を繰り返しているという。
即ち、”物体”は個体化も液体化も出来るらしい。
「どんな怪獣ですかソレ?クラゲ?」
「怪獣とも生物ともクラゲとも決まっちゃおらんさ。只、もし────」
────────生物としたら。
体組織を構成する分子を随意に分離・結合し、液状化出来る生物だという。
1973年4月頃、多摩川周辺に似た性質の怪獣の出現記録が存在するというのだ。

液状化できる生物の発見。
ネタとしては確かに申し分ない。
「でも、あんま京都と関係無くありません?できれば土地にちなんだ妖怪とか…………」
「ん、まあそうだな」
「で、その怪獣の行方は?田尾教授は確か見失ったとか云ってましたけど」
「ん──……未だ判らんよ、うん」
「ありゃ、そうですか?それじゃちょっと記事には…………」
「ん、そうだな。うん」



野阪先生が窓から外の様子を伺いながら、コーヒーを啜った。
ひくりと肩をいからせる。
首筋に何かきらりと見えた気がした。肩こり治療の何かだろうか。

────窓の外は厚く黒い雲に覆われた空が、今にも堕ちてきそうな暗さだった。
────遠雷。




「────────君、早く帰りたまえ」



「────は?」
「私の話は役に立たないんだろう?早く帰りたまえ」
唐突に帰れと云われて、雑誌記者の思考が停止する。
「いや、でも、もう少し話ぐらい…………」
「帰れと云ってるんだ」

より強い口調で云われ、雑誌記者は思わず腰を上げる。
窓辺の野阪先生に近づこうとして────柔らかい何かが爪先にぶつかり、床を見た。


「────怪獣はこの真下だ」

────倒れた、人の足。

「早く逃げろ」




────────次の瞬間、雑誌記者の肩越しに、蚊の様な囁き。

「ニゲズニシネ」






突然眩暈がした。

否、眩暈では無かった。耳に地響きが聞こえる。
ふらつくのは己の足だけではなく、視界の中ののあらゆる物が揺らぎ、動いている。
この部屋が揺れているのだ。

「早く!!早く逃げろ!!!」
野阪先生の叫ぶ声が聞こえる。
百科事典に躓き、雑誌記者は床に顔をぶつけた。
顔を痛みで歪めながら上げた目の前、ダンボールと本棚の隙間に、

小さな人の顔。

「ひッ?」
…………────驚き飛び上がり、今度は逆に尻餅をつく。
その床に付いた手の指の向うの影に、

人の顔。

山積みダンボールの蓋の陰に、
本棚に並ぶ本の間々に、
ロッカーの隙間に、
机の陰に、

人の顔。
小さな顔。

標本の上に、木箱の後ろに、小さな顔。人の顔。
背後の物置に、機材の影に、小さな顔。
ファイルの向うに扇風機の下に戸棚の上に野阪先生の首筋にフォークを構え当てた、

人の顔。
小さな顔。



「うわ…………うわわわわぁぁァァぁっッッ!!?」

声にならない悲鳴を上げて雑誌記者は廊下に逃げ出す。
スリッパが泥水を跳ねた。見れば廊下にあちこち水溜りが出来ている。
トイレからは水道が破裂でもしたのだろうか、大量の泥水がざぶざぶ噴出していた。

────否。
水道だけではない。
水道どころではない。
壁の隙間や柱や壁の継ぎ目、タイルの間からに至るまで泥水が染み出している。
また建物が揺れた。傾いている。
低くなった方から大量の泥水が流れてきた。
鈍い雑誌記者も、ようやく把握。

────────建物が沈んでいる!!

更に傾きながらどんどん建物が沈下していく。
雑誌記者は階段を見つけると必死に駆け上がった。途中の明り取りの窓を横目で見る。
外が無い。一面真茶色で、窓枠ごと膨らんでいる。
彼が走り抜けた途端にバキンと破裂し、大量の泥水が噴出してきた。
後ろは見ない。
階下は恐らく、沈没している。

更に駆け上がる。
既に三階、其処の窓には────────空があった!!
窓に張り付いて外を見ると、どんどん泥の海が迫ってきていた。
「…………────ッ!!」
躊躇の余裕は無い。
窓を開き、桟に乗り、壁を蹴って────────






泥しぶき。


手に何かが触れたので捕まった。
何かの板切れのようだった。
必死でそれに這い上がり、身体を泥から抜いて、泥の上を這いずっていく。

ようやく硬いアスファルトにたどり着いた。
必死で這い上がり、雑誌記者はくず折れむせる。
ようやく息を整え、腰を下ろし、自分のやってきた方を振り返って、
呆然とした。



鼻っ柱に雨粒が当たる。

建物が無い。
只、泥の海が広がるばかりだった。








天気は完全に豪雨へと変わった。



大粒の雨垂が無数の白い王冠を作り、急速に地上を水分で満たしていく。
跳ね上げられた砂と泥が流れ出し、何処があの泥濘なのかもはっきりしなくなった。
大学生達が騒いでいる。
突然の雨に降られた為か、目の前で建物が消えたせいか。それとも────

────雨の中呆然と跪く男が一人、居るからか。



今だ雑誌記者は信じられなかった。
先程まで顔見知りの人間と話していた建物が泥水の中に沈み、飲み込まれたのだ。
恐怖するよりも嘆くよりも、先ず状況が把握できない。
それに、あの時見た小さな顔────人間の顔────は何だったのか。
耳に染み入る雨音と奪われる体温により、更に頭は混乱していく。


それで、気付かなかった。
学生達が騒いでいたのも、そのせいだったのか。


雨の轟音の中でやけに煩い拡声機の声が聞こえ、
水ぶすまの向うから何人もの人影がばらばらと走り回っている。
一度だけ、奇妙なサイレンが聞こえた。
警察でも消防でもない聞いた事の無いサイレン音。
それで雑誌記者は意識を取り戻したのだ。

靴が水を弾く音。
現状を確認する間もなく、雑誌記者は数人の人影に囲まれる。
雨でよく見えないが、どうも白い笠の様な被り物と合羽を着た集団らしい。

「────何をしている」
顔は良く見えない。何か眼鏡か面のようなものが見える。例えるならガスマスクか。
「────立て」
手に何か構えている。その方面には詳しくないが、それは恐らく────


「────立たないか」
────銃器の類。




反射的に駆け出した。

逆らえば何かされるとかは思いつかなかった。
まだ何処か麻痺していたのだろう。
背後から何か叫ぶ声が聞こえるが構いはしない。
意外とあっさり包囲を抜け、雑誌記者は土砂降りの中をひた走る。

段々平常心を取り戻してきた。
ようやく恐怖感がこみ上げてくる。
何だ?あの連中一体何だ?
確かここは大学構内、あんな場違いで物騒な連中が徘徊していい場所はない。

もしそんな連中がここに居る理由が有るとすれば只一つ。
────起こった異常。
小さな幾つもの人の顔。
泥の海に沈没した建物。
恐らく、あの異常事態の関係者だ。夢ではなかったのだ。
もし夢ならば───────今だ自分は悪夢から醒めていない!


ふと思いついた。
そうだ、あいつは?変人女は?あいつなら何か分るかも知れない。
悪夢から醒める方法を。

隣の棟の通用口の物陰に隠れ、雑誌記者は懐の携帯を手に取った。
ズブ濡れだが何とか動いている。
震える両手で素早く操作し、変人女の番号へ掛けた。
発信音。
『  …………  ……────もしもし〜?』
「ああすまん、ちょっとい」
極小音。
右耳のすぐ横が爆ぜた。
驚き携帯を放すと、折り畳みの液晶部分が吹き飛んでいる。
顔を上げると、こちらを向いている白装束の銃器が、硝煙を雨の中に舞わせていた。


殺される!!
再び雑誌記者は雨の中を駆け出す。
複数の掛け声と水跳ねの音が聞こえた。
背後からプシュプシュというやけに気の抜けた音とともに、音速を超える鉛礫が飛来する。
雨の爆ぜるアスファルトの道を横断し、植え込みを飛び越え、レンガ道を駆ける。

目の前に有った建物に飛び込んだ。

逃げ込んだ建物は新しい大学に似つかわしくない、古い建物だった。
打ちっぱなしのコンクリートとあちこちヒビの入ったタイルが目に付く。
ペタペタと良く響く音に、まだスリッパを履きっぱなしなのに気付いた。
途中で放り出し、建物内をこそこそと走り回る。

取り合えず目立たない所。一階の階段下、荷物置き場みたいな場所に隠れた。



────────────カタ、ピシ、キイ。

じっとしていると、濡れた衣服に体温を奪われる。
恐ろしく寒い。膝を抱える。




────────カタ、ピシ、キイ。

外の豪雨は止む気配が無い。
時節、あの連中らしき拡声機の声が聞こえる。




────カタ、ピシ、キイ。

何かが軋む音に、雑誌記者は顔を上げた。
体の震えが止まらない。何処かで聞いた覚えがある。何だったろう?


──カタ、ピシ、キイ。

震えが酷くなる。近づいてきた。



カタ、ピシ、カタリ。
「あらあら、どうなさったの?」

やけに甲高い声が響き、雑誌記者は顔を上げる。
真っ白な手。
真っ白な顔。
サングラスをしてスカーフを被り、乳母車を押す老婆が居た。

「…………え、その」
妙な既視感と異様な老婆への警戒心がない交ぜになり、再び混乱する。
声が出ない。
「外の子達に、追われているの?」
質問に、雑誌記者は震える頭を縦に動かし答えた。

「じゃあ逃げないといけませんねえ」
老婆が乳母車の方向を変え、階段下の空間へと入ってくる。
警戒していると、雑誌記者の目の前を過ぎ、階段下の一番奥の場所へと入った。
積まれていたダンボールをそっと押しのける。
────古い鉄扉。
ぱっと見、ダストシュートか焼却炉のフタにも見えたが結構大きい。
その鉄扉の前で老婆が鍵束を取り出し弄くり、やがて鍵を鉄扉に差し込み、捻る。


カシャン。

意外に軽い音がして、扉が向こう側に開いた。
老婆が振り向く。
「それでは、こちらから逃げましょうか」









────中は古い地下道らしかった。


扉を閉める寸前の薄明かりの中で、あちこちにレンガ造りの壁が見えていたのだ。
鉄扉が再び閉められた時点で、中は深い闇に包まれる。
パチン。
音と同時に次々と薄暗い燈りが次々と灯っていき、長い通路が姿を現す。
「おや、まだ生きていたのねえ。どう?良く見える?」
「え…………ええ、でも貴方は?」
「私には必要ないからねえ。でも、眩しいのは良くわかりますよ?」
「ここは一体…………」
「まだ脇道の入り口よ。本道は、更にこの下」

老婆に導かれ、そのレンガの地下道を進んでいく。
途中、坂道や階段らしき部分を下った。
乳母車を押す老婆の筈なのに苦労していた形跡が見えなかったのは、気のせいか?
そして────


最深部。
煌々と灯っていた電灯が、そこで途切れていた。
しかし目の前には恐らく、これまででもっとも広く長いと思われる地下道が伸びていた。

老婆が乳母車からランプを取り出し、器用に火を付ける。
少しばかり通路の天井と壁が照らし出された。
いずれも滑らかな岩の地肌で、継ぎ目一つ見当たらない。だが何故か潤っていた。
何処か鍾乳洞を思い出す。
形は、典型的な観音掘りだというのに。

「さあ、ついてきなさいな」
老婆が先導するように雑誌記者を促す。彼はとりあえず────────




────後についていくしかなかった。









単調な地下道を、雑誌記者は老婆のランプだけを頼りに歩いていく。
気温は熱くも寒くも無いものの、相当な湿気で汗が滲む。


カタ、ピシ、キイ。
カタ。ピシ、キイ。


どこまで行っても同じような、のっぺりとした天井と壁。
ここに入ってから少しの勾配すら感じられない。
只々平坦な通路が続く。
確かここは京都の地下だった筈だが、一体この地下道は何なんだろうか?

「────さあてねえ。思ってもみなかったけど」
「貴方も知らないんですか?」
「まあ、昔から色んな人達が使ってたからねえ。
 お侍さんやら山伏さんやら。今もこうして、ホラ」

老婆がランプを向けた通路の片隅に、しゃれこうべが転がっていた。

「ヒッ!?」
「こうやって迷い込む人が居て、使おう、利用しようとする人が居るのねえ」
事も無げに老婆はランプを逸らし、再び歩き始めた。
「成る程、じゃあココは貴方にも良く分らない場所と────────」

「いえ?ちゃんとした持ち主は居るわよう?」
いきなりの更に甲高い否定語と同時に、老婆が振り向いた。
「利用する誰にも主張しないけど、昔も今もこれからも、ここはソレの領分だからねえ」
「ソレ?」
「────────”地底人”て云ったら、信じるかしら?」




既視感。


「地上の都市の地下にはもう一つの都市が有って、そこには地底人が居る────」
────雑誌記者の脳裏に、小人の住んでいたような小さな廃墟が思い浮かぶ。
────それは変人女からおととい聞いた話。
「日本各地の都市の地下にソレらは有り、全て地下道で繋がっている────」
────それは単なるヨタ話。
────そのはずだ。
「ここは、その一つ」

「じゃあ、その、ここって未だ京都ですよね?京都の下にもう一つ街があって」
「そう、地の底の都、”根津都”ね」
「そこに住む小人達がこの地下道を────」
「小人?」
「へ?」

老婆が振り向いた。
異様な程白い顔と紅い唇が浮かび上がる。
黒々としたサングラスが、顔の中心に穴でも開いているよう。
「────小人さん、ね」
紅の端がくいと上がり、三日月の様に弧を描いた。



そのまま沈黙してしまい、再び彼らは歩き始める。

カタ、ピシ、キイ。
カタ、ピシ、キイ。

それでも道すがらの静寂には耐えられず、雑誌記者は話題を振った。
老婆の事を聞いてみる。
「────これでも私は、昔ある所の工作員として働いていた事が有ってねえ」
何でも、仏蘭西人に化けて東京に潜入していた事があるらしい。
という事は仏蘭西人ではないということか。この老婆の本来の出身は何処だろう?
化粧の事も聞いてみる。
「その昔の働きの時事故にあってねえ。そのキズを隠してるんだけど、見たい?」
「…………い、いえ」
老婆が頷き、また紅がくいと上がった。





────カタリ。

老婆が止まった。
雑誌記者も歩みを止める。


「ダメよ」
振り向きながら老婆が背後へと声を掛けた。
雑誌記者にではない。その背後、ランプの光の届かない闇の向こう。
気配がする。

「この子は部外者、巻き込まれただけ。何かしようとしてはダメ。予定外でしょ?」
闇が戸惑う。

「この子が何か知ってても、何か出来ると思う?」
闇がにじり寄る。

「手を掛ければ────違反よ?全て終わり」
闇が、


────────そこで、退いた。
「さ、行きましょう」








カタ、ピシ、キイ。
カタ、ピシ、キイ。


一体どれ程歩いたか。

少なくとも雑誌記者には既に感覚は無くなっている。
距離も、時間も。
風景が無ければここまで簡単に人は感覚を失うのか。
この単調な地下道には曲がり道も十字路も無く、何処までも続くような印象を受ける。
しかし────

「ここよ、止まって」
老婆が停止し、脇に逸れた。
今度は赤くボロボロに錆び付いた鉄格子を開け、上へと登っていく。
幾つか階段を登り、壁は漆喰から見慣れたコンクリートへと変わった。
鉄筋らしき針金が幾つも天井から下がり、ゴウゴウと鳴る鉄パイプが天井を走る。

『立入禁止』
最期にそんな黄色い看板を通り過ぎ、これまた赤錆びたハシゴの傍に出た。
上はどうやらマンホールらしい。


「着きましたよ。ここから上にお上がりなさいな」
「貴方は?」
「お構いなく、お構いなく。私なら大丈夫ですよ?」
老婆に急かされて雑誌記者はハシゴに手をかけた。多少ヌルリとしたがためらわない。
少し登って老婆の方を振り返ると、老婆は既に歩き去ろうとしていた。
地底の闇に解けそうなその背中に声を掛ける。
「あの────有難うございました!」


「ええ、ええ────いつかまた、どこかで」
あの軋み音の向うで、そんな老婆の声が闇の中に消えた。








存外重い鉄の蓋を持ち上げて横にずらす。

ようやっと自分の通れる隙間を作って地面の上に這い出すと、蛍光灯が見えた。
どうやら何処かの路地裏らしい。
時刻は既に夜らしく薄暗い。しかしあの地下道に比べ、空気は格段にうまい。
深呼吸する。
マンホールの蓋を蹴って戻した後、雑誌記者はようやく道端に腰を下ろした。
約半日ぶりの休憩である事に、座ってから気付いた。


結構歴史的に古そうな木作りの町並みが眼に入る。

いわゆる、東京で云う下町だろうか。狭い路地には自転車や植木鉢が置いてあった。
遠くで犬が鳴き、木の格子窓から明かりが漏れ、TVの声が聞こえてきて、
────向うの方で主婦らしき住人が顔を出した。
「…………ああ」
気付いた。
良く考えれば自分は泥の海を泳ぎ、雨に打たれ、その後半日も地下道を歩いている。
よくよく見ればあちこち汚れていた。
マンホールから出てきた所も見られたかもしれない。不審材料タップリだ。
住人が中に引っ込んだ。通報されるかもしれない。
足が棒のようだったが、雑誌記者はその場を離れる事にした。



とりあえず車も多い大通りに出る。

────さて、どうするか。
先ずは警察か。
通報より前に出頭すべきだろう。
もしかしたら変えの服か洗濯でもさせて貰えるかもしれない。
その後予約のホテルに連絡して、駅のコインロッカーに預けた荷物を取り出して、
鍵は?尻のポケットをまさぐるとちゃんと有った。
後は伊井館大学に置いてきた手荷物を────────

────それ所では無いか。建物が地下に沈み、少なくとも犠牲者一人。
────会社に連絡しとくべきか。もしかしたら徹夜のおかじー位居るかもしれない。
────いや、それより。
変人女だ。
何やら怪しい連中が徘徊している。アイツなら何とかしてくれるかもしれない。
一度電話して切れたから、何か勘づいているかもしれない。
それに、この事件の一端らしき事実を知っていたのだ。
そうだ。まずアイツに連絡しよう。

とりあえず公衆電話を。
携帯が世の中に溢れても無くなりはしないハズだから────





「…………────────君!」



いきなり後ろから声がした。

「そこの君!!汚れた格好で歩いている君だよ!!」
一応振り向いてみた。
自分の事とは思わなかった。

「ああ────やっぱりだ!生きていたのか!!良かった!」
矢張りそこの声は自分に向けられたものだと、彼は理解した。
声が聞き覚えのあるものだったし、
何より雑誌記者の背後に停まった黒塗りの外車から身を乗り出していた人物が、


────野阪先生だったから。



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