怪しい水底
土砂降りの夜の山中を、一台の四駆が走っていく。
雫の重みで垂れた葉々が窓を撫で叩き、煩いワイパーが激しく左右に振れる。
窪みを通ったか思うとガクンと車体が揺れ、泥水が盛大に跳ねた。
「うおォう、大丈夫です?ちょっと」
「んん?まー、大丈夫つったら大丈夫だわな」
────そうだべっているヒマなど無いと云う様に、車体が大きく横滑りする。
「うわ!?本当に」
「まーいっつも使ってる道だから大丈夫だわな。ここんとこ通ってないけど」
つっこむ暇も無く揺られながら、ようやくアスファルトの安定した道に出た。
「おぉ、やっと県道ですか」
「だから大丈夫だって云ったわな」
先程までの悪路程ではないものの斜面の一車線、注意しながら車は進んでいく。
踊るように蠢くナンジャモンジャの木々の向うに、黒々とした水面が見えた。
「でもダムの連中如何したんでしょねー。事故か何か?」
「案外寝ぼけてたとか呑んでたとか、まあ大したこっちゃないと思うわな」
雨飛沫を上げる水面の向うに堰が見えた。
黒く濡れた灰色のコンクリートの壁が所々人工の光で照らされている。
微妙な絵柄のキャラが踊る、真新しい道路標識を通り過ぎた。
────【礼根沼ダム】。
ダム駐車場に着くと、既に他にも何人か到着していたらしい。
パトカーも停まっている。
堤の方では幾つもの懐中電灯の光が揺らめき、暗い水面の方をうろうろしていた。
「おぉ────い」
車のドアに合羽を挟んで四苦八苦していると、黒い雨合羽の男が駆け寄ってきた。
「あぁ駐在さん、早いですね?」
「まあ先に連絡来たのが此方ですしね、そちらもこんな雨ン中ご苦労サンですー」
「ま、コレでメシ食わせてもらってますからねぇ」
とりあえず駐在さんの導きで雨の当たらない所へと移動する。
「で、中の様子は如何でした?」
「それが管理所や艇庫にはだーれも見当たらんのですわ。車とかもそのままですし」
「誰も居ない?確かですか」
「うん、でも合羽が幾つか無くなってたから外出したんじゃ無かろかって。それで」
「────それで、ダムの方と」
懐中電灯を頼りに水面を見る。
水位の限界線を、風に煽られた波頭がジャプジャプと叩いていた。
「やばいんじゃないですか水位?」
「んー、一応関係各所には連絡済です。只警報とか放流とかこっちでする訳にもねェ」
────確かに、ダムの担当者で無ければ異常事態には対応できまい。
だが今回の異常事態は、特別。
ダム管理職員がこの雨の中、皆行方不明になっているのだ。
ここ数日、周辺地域は大雨で水位上昇が懸念されていた。
そこに昨日、夕方にダム湖へ流れ込む支流で土石流が発生。
消防団が連絡を取ろうとしたが、ダム側は沈黙するままだったという。
不審に思った消防団の一員が連絡を取ろうとダム管理所に行ったのだが、
そこには誰も居なくなっていたのである。
「────────まずいなあ」
「あー、やっぱりセンセイに連絡すんですか?それで助けか何かを」
「先ずは現状確認が先ですよ。救援要請やら何やらはそれから。
先生はお忙しいですしね」
無線が入った。
「────え?流木とかは?大丈夫?」
「どうしました?」
「網場の網が破れてるそうです。土石流のせいでは無い云ってるけど、何か」
「行きましょう」
ダムに余計な流木やゴミの流入を防ぐ網場の網が、破れている。
この大雨で流入量が増えている上、管理職員不在の状態でそれはダムの死活問題だ。
確認する為、駐在さんを伴って雨の中を走っていく。
「────ん?ちょ、ちょっとアレ」
駐在さんが何かを見つけたらしく、岸辺の木々の隙間から湖面を照らす。
白い何かが反射した。
「…………何か、浮いてる?」
岸辺ギリギリまで降りて懐中電灯で照らし出す。
どうやら懸念していた『人の死体』ではないらしい。もっと変な物体だった。
「…………カニ?エビ?」
大きさは小学校低学年位。
節のある長い脚と腹部、甲羅がざっと見て取れる。
頭と思われる方には、妙に枝分かれしまくった鋏みたいな触覚。
そして、体の中心部をヤリみたいなものが貫通していた。
ソレが原因で絶命したか、そのカニかエビみたいなものは微塵も動かない。
「あれ、ダム管理所の備品じゃないですか?網場ン所のホレ、脇に置いてあった」
そうだ、確か柵を作ろうとかいって準備してた杭ではないか。
ではもしや、管理職員達があの甲殻類を殺したのか?
何故?そもそもその職員達は殺した後、何処へ消えた?
ざざざざざん。
ダム湖の中心から水音が聞こえた。
遅れてうねりが岸に届き、少しばかり大きな波が足許にまで押し寄せる。
照らしていた甲殻類の死体が、それで沈んだのか見えなくなった。
「何だ?一体」
懐中電灯で湖の中心向けて光を放つ。
遅れてダム堤にもうねりが届いたらしく、そちらからも燈りが向けられた。
ダム湖の水上を、幾つもの光の筋が走る。
何か照らし出された。
水面からいくらか高い空中を、長い何かがうねっている。
「────何だありゃ」
あっけに取られる駐在さん。
更なるうねりによる波が靴を濡らす。
その内誰が思いついたのか、車のハイビームらしき光が湖上の何かを照らし出す。
────────蛇が湖の上で踊ってやがる。
光景にそう思った。
<
じとーっと汗がコメカミを流れ落ちる。
ムッとした空気感も何処かで鳴いてるアブラゼミももう夏めいているが、
見上げれば朝からどよんもよんとした曇り空。
もう七夕も間近だというのに、こう中途半端な空模様ではカササギも飛ぶか飛ぶまいか
銀河の端で大いに迷っているに違いない。
まあそんなアホな事を雑誌記者が考えているのも訳ありで、
現在彼がショッパイ玉雫たらしながら佇んでいるのは安アパートの前であり、
奥から聞こえてくるジャブジャブという水音は変人女の朝シャワーの音であり、
出入り口で塚守妖精の如くこっちを上目遣いで睨んでいるのは、チーコちゃんな訳である。
────てかこんなボロ部屋で個別にフロトイレ付きとは、改めてビックリだが。
「…………おうい、まだか?」
「ん〜、もうチョイ待ってー、今リンスしてるー」
部屋の奥から少し熱を持った水とシャンプーの匂いがふんわりと漂ってくるのだが、
何故だろう、ちっとも興奮しないこのシチュエーションは。
「つうか今日一緒に会社に来るって云ってたのお前だろーがー?早くしろって」
「髪長いから時間かかんのよぅー」
どーせ後で無造作にひっつめるクセに何云ってんだか全く。
「中入って座るくらいいいだろー?」
「女二人の秘密の花園に汗臭い野郎がノコノコ入る積り〜?」
変人女の声を聞きながら、チーコちゃんのむこうに見える居間を眺める。
まだ引っ越して数日だというのにコンビニ弁当を食べたカラが幾つも散らばっていた。
何処が花園だ何処が。
────視線を下に戻すと、まだチーコちゃんががんばって此方を睨んでいる。
「…………おはよ」
「あい」
「元気してる?」
「あい」
「学校楽しい?」
「あい」
「中入っていい?」
「……」
…………いや、表情変えるとか何か反応してってば。
水音が止んだ。
と思ったら、シパーン!と風呂場の扉が開く。
何事かと顔を上げると、変人女が前をバスタオルだけで隠しながら出てきた。
雫を滴らせて、眉間に皺寄せたものすごい顔で。
「…………な、何?」
声に三白眼がこちらを睨む。ちょいとひるんだ雑誌記者に、一言。
「 水 、 止 ま っ た 」
<
「────で、あそこで髪洗ってんのか」
「はあ」
雑誌記者が団扇で自分を扇ぎながら応える。
クーラーが息切れする位ガンガン働いてるのに、編集長は自前の扇風機を付けていた。
結局、変人女は朝シャワーで完全に髪を洗うことが出来なかったらしい。
編集部に来るなり給湯室に走り込みあの状態なのである。
しかも、
「…………────おかじー、お湯の温度も少し下げてー」
「了解したッス!!」
おかじー、下僕行為は時と場所を選べ。ここはお前の職場だ。
その様子に編集長はますます照かりに冴えを見せる頭をキュッキュ拭きながら、苦笑い。
「ま、あんなんでも女だしなー。綺麗好きはしゃーないだろ!」
「そこですかツッコムのは」
それにしても何故いきなりアパートの水道が断水したのだろう?
工事ではないらしいのだが。夏の某うどん帝国の水事情じゃあるまいし。
そうそう、と編集長は話題を変える。
「彼女と今度同居始めたチーコちゃん、だっけ?どんな娘だ?」
「どんなってか、まあ普通の娘だと思いますけど?」
まあ、出自が変で表情も妙で更に特殊能力持ちと思われるスーパージャリン娘なのだが。
「いやースミ先生が一度会いたいって云っててな。連れてきてくれんか?」
「嫌ですよ、編集長がちゃんと保護者にアポ取って下さい」
「保護者と一番親しいのはお前だろ〜?何か理由つけてさ、な?」
「いや、な?じゃなくって」
「何ならあの保護者をお前の男の魅力でタラシ込んで云うこと聞かせてー」
「何で俺がたらし込まにゃならんのですか!第一あの保護者に女の魅力が────」
その女の魅力ゼロの保護者様が、給湯室のカーテンから仁王フェイスで出現した。
「おかじ────!」
「ハヒッ!?」
「コンビニでミネラルウォーター2.5L三本、大至急買うて来い!!」
「サー!イエッサー!!」
号令と同時に、三等兵おかじーが女鬼軍曹の為に編集部を飛び出していった。
変人女の頭は未だ泡を吹いている。シャンプーの最中だったのか?
「…………どした?」
「 ま た 、 止 ま っ た 」
ブチ切れてあたり構わず超音波メスで攻撃しまくる変人女を雑誌記者が止めに入る。
と、その横のトイレから派遣社員の小坂が出てきた。
「へんしゅーちょー、トイレが流れませぇーん」
「何だ、ま〜た一週間目の重くてデカいナニなブツでもヒリ出したか?」
「セクハラで訴えますよぅー?」
雑誌記者がくけーきけーと奇声を上げて騒ぎまくる変人女を羽交い絞めにしていると、
外から拡声器の声が聞こえてきた。
どうも東京都水道局とか云っている。
「────何だ?ここでも断水か」
編集長が窓から見下ろした道路の上を、スピーカー付広報車がゆっくり通り過ぎていた。
卓上で付けっ放しの小型TVに、ニュース速報のテロップが入る。
『本日午前10時、東京都水道局発表によると一部上水道水より
高濃度の亜ヒ酸系化合物を検出、緊急措置として断水を実施』
『被害規模は未だ不明、汲み置きも使用しないようにとの事
断水地域は以下の通り…………』
<
「よっと、はいよー兄ちゃん」
「あ、すんまんせんです」
頭を下げながら、雑誌記者は水色のポリタンクを受け取る。
ずしりとした水の重みと揺れが右手の第二関節に食い込んだ。
先に入れた他のポリタンクを一緒に持ち、給水車の前からよっこらせと立ち上がる。
「兄ちゃん、意外と水って重いだろー?ネコ車位持ってきたほうがいいぞー?」
「いえ、大丈夫っす。それじゃ」
とか云いながら、雑誌記者の脚はしっかり千鳥足。
階段半ばにして雑誌記者の腰から力が抜けた。
「あフぅッ!?」
ヤベエぞ俺ぎっくり腰か?
未だ三十路にもなってないのに?
オッサン?俺オッサン!?
とか良く分らん思考を渦巻かせながら気が付けば痛みと麻痺の消えた腰を奮い立たせ、
よーやく目的の部屋の前に辿りつき、苦行は終了。
錆びてべこんべこんの床にタンクを置いて、部屋の戸を開ける。
「…………うおぉーい、持ってきたぞ〜」
「お、ごくろーさーん」
扉を開ければ、変人女が自分の部屋の奥でPCをいじっていた。
その姿はタンクトップにハーフパンツという、ラフなことこの上ない出で立ちである。
「うわ5本一度に持ってきたの?ようやるわー」
呆れた声を上げながら玄関へとやってきた。
目の前で生脚がポリポリふくらはぎを掻く。
「お前が手伝ってくれてたらもうちょっと楽だったんだがな。ホレ入れるの位手伝え」
「何よ一人で行けるって云ったから任せたんでしょーがーそれとも何?アタシに」
「あーもー分った分った機嫌直せよ。取り合えず、」
変人女の顔を見上げた。
「その爆発頭、どーにかしろ」
────結局あの後。
おかじーの買ってきた彼曰く『どっかのお山のおいしいっぽい天然らしき水』。
コレを沸かして髪を洗い乾かしたのだが、
何をまかり間違ったか変人女の髪が異様なクセを発現、ドリフ状態と化したのである。
悪かったのは水か、シャンプーか、リンスか、それともドライヤーか。
兎にも角にも度重なる災厄に変人女はブチ切れ、見事おかじーはスケープゴートへ。
只、おかじーが折檻される度、
「ああごめんなさい!ボクのせいです!もっと踏み躙ってください蹂躙してくだしあー!」
とか何とか云ってたのはヤバイ傾向だと思ったが取り合えず無視を決め込む事にした。
いやあ逃避って本当に素晴らしいものですね!!!
とりあえず変人女は本日四度目の洗髪を開始。
その内アフロになるぞー?とか考えながら、雑誌記者は部屋の中で一休みする。
「冷蔵庫に麦茶あるからそれでも飲んでてー」
いつのまにやら男子禁制の園はどっかいちゃったらしいありがたいこってす。
お言葉に甘えて適当なコップに注ぎ、ぐいっと一気飲み。
見れば部屋の中に変人女のPCが有った。
あの燃えたPC群程ではないが、早速パーツを買ってきて改造しているらしい。
今付けっ放しのは当座のブツだろう。
モニターの中に、地図が見えた。
「ん?何だこりゃ」
東京都の道路地図かと思ったがどうも違う。
見慣れた道路地図とは明らかに線の繋がりが違うし、変な色が塗ってある。
「ああそれ?今回の断水地域と、主要上水道の配置図よーん?」
「上水道?そりゃまた────……」
────変人女が、洗い髪をふきふき出てきていた。
「ひゃあー、やっぱきちんと洗うとサイコーだわ!はーいちょっと退いてー」
PC前の雑誌記者をどかして、タコ脚配線に更にドライヤーのコンセントをブっ挿す。
目の前で、香料の匂いのする髪が揺れていた。
「ん?何さ?」
「……別に」
聞けば、今回の断水の原因は『亜ヒ酸系化合物』による汚染が原因だという。
そこで汚染地域と上水道の配線から、汚染元を特定しようとしたのだそうだ。
「でも特定は現時点では無理ねー。マスコミに当局発表も未だ曖昧だし、様子見だわ。
これじゃどっかからいきなり湧いて出たようにしか見えないしー」
そう云いながら、変人女は髪をちゃっちゃと梳きながら乾かしていく。
これで後は無造作にひっつめるのだから、髪に気を使ってるのやらないのやら。
「…………つーか、起こったその日に特定しようとしてるお前がすげえよ」
そう云う雑誌記者の肘の傍で、自分のではない携帯が震えた。
<
断水騒ぎで小学校が休校になったらしい。
髪を乾かしいつも通りの髪型になった変人女が、チーコちゃんを迎えに行くと云い出した。
雑誌記者には関係ない話しだし、とっとと編集部に帰るつもりだったのだが。
「じゃ、途中まで一緒に行く?駅まで道同じだし」
変人女と二人でアパートを出る。
前に来たときにも思ったが、この辺りは結構いい感じの下町だ。
それ程汚れていない水路が道の脇を通り、近くには緑の残った杜が一つ。
神社でもあるらしい。学校はその杜の向うだそうだ。
「やっぱここにして正解だったわー、前みたいなゴミゴミした所も風情が在っていいけど」
「あの混沌が風情かよ!」
「ま、ね。まあチーコちゃんと一緒に暮らすならコッチの方がいーやね」
ちなみにこんな妙な怪人物を快く迎え入れる奇特な大家さんは一体誰だと思ったら、
「ん?陳さんだけど?」
またかいな!だから誰だよ陳さんて!
チラホラ下校するランドセル達が見受けられてきた。
「あ、ところで俺来週しばらく取材で居ないから、おかじーに引継いどくからヨロシクー」
「ふーん、何処行くの?」
「長野の山奥」
「ほほぅアンタまた強制労働がお望み?次は何がいい?」
「だからちゃんと伝えてんだろが!俺にもちゃんと仕事させろよ!」
云い合ってる間に、目的の小学校らしい校門が見えて来た。
少子化なぞ何処吹く風ぞとでも云うようにわらわらと子供達が下校している。
────その校門前、小学校の名前プレートの前に直立不動で立つ、見知った髪型。
「や、チーコちゃん」
ぴょこりとツインテールが動いた。
「あい」
「ゴメン、待った?」
「あい」
「にへへゴメンね⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーン」
「あい」
何か成立してるのかしてないのか分らん会話が展開されてるがどうすればいーのだオイ。
「あらこんにちわー」
何か挨拶されたので雑誌記者が振り向くと、娘を連れた母親が立っていた。
脇には毛がもっさもさのおっさんみたいな顔の子犬を連れている。
「いつも娘がお世話になっております、チーコちゃんのお父さんですよね?」
「へ!?」
「奥様もそちらもお若いですね〜羨ましいですわー」
「いや、ちょ!?」
「もーお母さんてばこのヒトがお父さんな訳無いでしょ?ほら困ってるじゃない!」
「あらそお?」
「そーよホラ、何てか垢抜けないって感じだし────あ、チーコちゃーん!」
娘がどうもチーコちゃんの友達らしい。
チーコちゃんの方へ駆けていく娘に、母親も子犬を引いて慌てて付いていった。
どうも、雑誌記者はチーコちゃんの父親と間違われていたらしい。
という事は変人女は母親か?
確かにそんな雰囲気だが年齢は…………ま、ありえん事でもないが。
云われて見れば、変人女は最近何かと丸くなったというか所帯じみた感じがする。
────被保護者が出来れば、女とはこうも変わるもんなのだろうか?
あの変人女でも。
変人女は母親と雑談している。
チーコちゃんはあの同級生にいじられてるみたいだが、まんざらでも無いらしい。
何か輪からはみ出してるみたいでいっそこのまま駅に向かおうかとも思ったが、
そうすればまた変人女に文句を云われそうで、
結局雑誌記者は、手持ち無沙汰。
しょーがないので同じくハミ子にされてる子犬を眺める事にした。
最近の雨で増水気味の水路を、ヒゲ面のお犬様は珍しげに眺めている。
その内、水路に向かってフャンフャン吠え始めた。
何か水路にでも居るのだろうか?
確か、この前この水路で真っ赤なザリガニを見たような気がする。
この増水で流されてきたフナやナマズでも居るのかも。
────それとも、自分の顔にビビって吠えてるのだろうか?
その内水面近くに鼻先を持って行き、そっと水に顔をつけたかと思った瞬間、
「ヒャン!ヒャンヒャンヒャン!!」
一瞬機械仕掛けのぬいぐるみかと思う位跳ね退いてピョンピョン飛び回り始めた。
思わず微笑ましくなってしまう光景である。
「何ニヤニヤしてんのよ、気色悪い」
いきなり後頭部をシバかれて何事かと思ったら、後ろに変人女が立っていた。
そして、変人女の後ろからチーコちゃんがじっとこちらを見つめている。
もしかしてバカにされてる俺?
向うでは先程の母娘が歩いていく。母親は子犬のリードを抑えるのに必死なようだ。
娘の方がこっちへ手を振ってきた。
「じゃまたねー!チーコちゃーん!バイバーイ!」
「あい」
変人女もチーコちゃんに代わって手を振り替えし、雑誌記者の方へ踵を返す。
「じゃ、アタシはここからアパートに帰るから。あんたも早く駅行きんさいな?」
「はいよ。じゃまたなー、チーコちゃーん」
「あい」
「こらこら、アタシにゃ挨拶ナシかい?」
キャッと悲鳴がして、そっちの方へ振り向いた。
先程の母親がリードを取り落としている。
その長々と力無く伸びたリードの先に、
────子犬だった死骸が転がっていた。
<
瑞々しい濃い緑が、視界に溢れる。
「────じゃあ何か、あの子犬は亜ヒ酸中毒で死んだってのか?」
『ん、そゆこと。でも経口摂取、つまり汚染水飲んだ訳じゃない。水路の汚染もナシ』
「じゃあどうやってんだよ?」
『直接毒物を注射された可能性があるってお医者さんは云ってたらしいけど、詳しくは』
「じゃあ、水道の汚染とは関係ないって事か」
『ま、今の所はね』
眼下に渓流が見えた。山奥には不釣合いな程立派な橋を渡る。
「そういや今日だっけ?断水解除」
『おーよ中和作業に日にち掛かり過ぎだってーの!久々にフロは入れるわー』
「おめでとさん、もうドリフにならんよう気ィつけろよー?」
『ソレ云うな!』
「あ、そろそろ降りるわ。電池も心配だし切るぞ?」
『あいよ、お土産ヨロシクぅ』
典型的な田舎道のバス停で雑誌記者は降りた。
その林道みたいな道を少し歩くと、目の前に何かの野菜の棚畑が広がる。
────礼根沼町。
先の市町村合併で正式にはその名は消えたが、未だその名前で呼ばれる集落である。
結構古い名前であり、田舎特有の閉鎖的な町であると聞いている。
しかし。
道路はちゃんとしたアスファルト舗装。
標識に白いガードレール、コンクリ製の電柱に街灯。
一部の道路に至ってはレンガタイルの歩道まで付いていた。
まるで真新しいベッドタウンである。田舎であるという感じがまるでしない。
「何だこりゃ?」
道端にお地蔵さんを見つけたが、これまた小奇麗なログハウス風の祠に鎮座している。
見回せば家々もモデルハウスみたいに真新しい。
只、携帯だけがアンテナを立てられずに苦戦していた。
まあ変な町だが、目的はココではない。
地図を頼りに脇道へと入っていく。
────横のトマト畑に、大きなトタン製の看板が立っている。
『 おいでませ摩訶不思議の里へ 、礼 根 沼 み す て り あ す ぱ あ く 』
…………何だか不安になってきた。
坂道を登りきり、ようやく目的地に辿りつく。
不 安 的 中 。
────何だか良く分らないジャングルジムみたいなのとかのアスレチック風遊具とか、
────『砂金堀を体験しよう!』と達筆な文字で書かれた水使用の施設とか、
────それでいて普通の民家風の建物が敷地の中心に建っていたり。
まちがいありませんいわゆるパラダイスです本当にry)
「ここで合ってるよな?」
地図上では”金子次郎”宅、間違いない。
だがこの奇怪な物体群は地図上では無視されているらしい。
何か看板がある。
『礼根沼の名物は、一に鉱山・二に忍者・三にお化け!その全てを体験できる!!』
…………溜息一つ、取り合えず民家風の建物の方へと向かう。
洗濯物まで干してあるし、どうやら飾りでなく人の住む建物のようだ。
住んでるのがちゃんと金子さんだったらいいんだけど。
と。
彼方に見える山間に、光るものが見えた。
見た感じ太陽の反射光といった感じがする。
「池?…………それともダム湖?」
確かあちらの方はバスで通った筈だが、そんなもの有ったか?
「ぬおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉう何やってんだお前────!?」
「うひっ!?」
声に驚き振り向けば、老人が一人スコップを構えて立っていた。
小柄だががっしりした体格で、足腰もしっかりしているらしい。
顔は岩みたいに真四角だ。てゆーか、
「…………えーと、金子さん?」
警戒を解いてくれた金子さんは、意外とフランクな人だった。
「いやいやすまんすまんたまーに都会から来たバカ者がイタズラしていくんでなー!」
「はあ」
「あ、ちなみに今のはバカ者と若者かけてんの。判った?」
いや解説されても。
しゃがれた大声で金子氏が家のほうに呼びかければ、中からお婆さんが出てきた。
田舎とは思えない小洒落た格好。
金子さんの奥さんだろう。
「おい、ホラ、こないだ電話来てた東京の雑誌の人だィ」
「あ〜らあらあらよくもまあこんな鄙びた所までおいで下さいまして、ご苦労様ですぅ」
「はあ、どうも」
奥さん、丁寧そうな人だと思ったら旦那さん並のフランクぶりである。
「おい、お前、酒もってこい。この前の寄り合いで余ったの有ったろ?それと枝豆とー」
「んもーお忙しい所引き止めちゃダメでしょ!ほらお仕事とか云ってらしたし」
「ん、そうか?」
「そーでしょ」
だが常識はあるようだ。奥さん、舵取りお任せします。
名残惜しそうな金子氏と奥さんと共に、母屋の裏へ回る。
竹薮の中に結構立派な倉があった。
一応先程のパラダイスの一部らしく、扉の上の木製の看板で文字が躍っている。
『 礼 根 沼 秘 宝 館 』
────金子さん、もしかしてわざと?
低く軋んだ音を立てて重々しい扉を開き、続いて金子氏が電気を付けた。
「…………────おぉ」
「どうだィ?凄かろう?」
思わず見とれる雑誌記者。倉の中は雑多ながらも整理され、陳列棚が並んでいる。
そのガラス張りの、向こう側。
────鹿角の野ウサギ。
────有翼の黒猫。
────三つ頭のブルドッグ。
────独脚の二枚貝。
異形の剥製の群れが、其処に有った。
そう、これが雑誌記者の今回の取材の目的なのだ。
様々な怪物の剥製を持っているという老人の話を聞きつけ、ココに来たのである。
奥さんの話によれば、
金子氏の家系は昔こういう『怪物』の剥製を作ることで生計を立てていたという。
金子氏本人はその家業を忌み嫌い鉱山夫や土木作業員等をして働いていたが、
年をとり、故郷に腰を落ち着けた後、こういった剥製を集め出したという。
────それこそ、古の軌跡をなぞる様に。
「おーコレコレ!!これ高かったのよ、確か下の畑三つ位売ったっけ?肥溜めごと」
「ええ、んもー本当に物好きで困りますよ次郎さんったらー」
何かあんまり真剣な昔語りじゃなかったよーです。
とりあえず、金子氏が次々紹介する剥製を眺めていく。
────前後に頭があり、輪になった蛇。
────人面の馬。
────背鰭の有る鰐。
何故かカモノハシまで混じっていた。
奥に行けば行くほど、更に奇妙なものが現れる。
────角の有る大男の木乃伊。どうやら鬼らしい。
────河童。天狗。お馴染みの人魚。もう何でも有りである。
まるで怪獣博物館だ。
「で、これが我が家で一番大きい怪物の剥製ですよ。どうです?」
奥さんが指した倉の一番奥、ガラス張りの向うで壁一面の戸板に貼り付けられた物体。
うねる胴体。
樹木の様に枝分かれした首。
大きく開かれた口と、中に並ぶ牙。何故か眼は無い。
────多頭蛇の剥製だ。
あまりに巨大で、壁に彫り付けられたレリーフの様に見える。
並んだ頭を数えてみる。ひいふうみい…………計八本、いや、九本?
「奥さん、あれは?」
枝分かれした首の内一本、先がもげて無くなっているものが有る。
「ああ、あれですか?次郎さんが昔失くしてしまったらしいんですけど────」
ならば聞いてみようと振り向くと、あれだけ騒がしかった金子氏が黙りこくっていた。
真剣な、それでいて少し悲しそうな表情で怪物の剥製を見上げている。
「ふふふ、この剥製の前だとね、いっつもこうなんですよ」
「…………兄ちゃん、未だ許してくれんか」
そう金子氏が呟いたのを、雑誌記者は確かに聞いた。
<
本日は無論、泊まりである。
熱心に引き止める金子氏宅を辞して、雑誌記者は予約していた民宿に泊まった。
民宿とはいえ、結構うまい田舎料理に舌鼓を打つ。
ふと思い出し、部屋を出ようとする民宿の奥さんに聞いてみた。
「ダム?この辺にそんなもの有りませんよぅ?」
「じゃあ池とか、沼とか、そういう水場みたいなのは」
「下の川とか井戸とかなら有りますけどね、それじゃこんなに水で苦労しませんってぇ」
確かに。云われてみれば民宿の水場には必ず『節水』の張り紙が並んでいる。
水道の出も悪いようだ。
「ポンプとかで少ない水を上げてますからねぇ、隣町から引いてるトコも有りますよぅ」
ならば、昼間あの時見た反射光は何だったのだろうか?
────────好奇心が疼いた。
<
「えーと、一に鉱山、二に忍者、三にお化けの剥製だっけか」
「はい、それが礼根沼の三つの名物だそうです。おかしいと思いません?
地名に”沼”が入ってて、それらしき大きな水場もあるのに誰も知らない、ってのは」
「ふぅん、蜃気楼でも見たんじゃねーのかお前」
「蜃気楼ってそうホイホイ出るもんですか?」
「さぁな」
林道を地図を見ながら徒歩で歩いていく。
あの集落内よりも林道の方が電波状況がよいとは、益々変な場所だ。
しかし稜線の陰に入ったのが災いしたか再び電波状況が悪くなり、結局通話を切る。
結局編集長に同意は得られなかった。
まあ確かに、遠目に見た光だけでそこに湖があるとは早計かもしれない。
────だが。
「ここもか」
雑誌記者はもう一度、地図で場所を確認した。
礼根沼周辺の林道を歩いていると、しょっちゅう道端の有刺鉄線付きの柵に出くわす。
本線には関係ないし、雑木林や薮に埋もれているので普通は目に付かないだろう。
しかし、林道を地図で見れば気付く事が有る。
「…………やっぱり、この谷を避けてるな」
うねうねと走る等高線の中、礼根沼近くの大きな谷の一角。
走る林道の唯の一つも、稜線を越えてその谷の内側を走っていないのだ。
林道はその稜線を突っ切ればいいものを、わざわざ下流と上流に迂回している。
谷の部分には何も記されていない。施設の一つ、沢の一つも見当たらない。
しかし今目の前にある有刺鉄線の柵の方向は、間違い無く谷の方角だ。
前に立ち、雑誌記者は柵を見上げる。
3m以上は有るだろうか。左右を見れば、薮の遥か向うまで延々と続いているらしい。
常人ならこんなものは越えようとはしないのだろうが、彼はおもむろにペンチを取り出した。
「…………奥さんゴメンナサイ、必ず返します」
パチリ、パチリと一本一本有刺鉄線を切断していく。
柵の上にまで並んでいる有刺鉄線をよじ登りながら全て切断し、向こう側を覗いた。
「おおー……」
矢張り、予測した通り。
柵の向こう側にも道が続いている。
荷物を向こう側に落とし、さて自分も乗り越えて地面に降りようとした瞬間、
「え?うわッ!?」
柵の内側に先を尖らせた杭が並んでいるのが見えた。
慌てて柵の内側を引っつかんで空中にぶら下がり、そっと杭の隙間に降りる。
危うく串刺しになる所だ。
よくよく見れば柵だと思っていたのは開閉式の門らしい。内側にレールが有る。
あの串刺しの杭もしょっちゅう移動させられている様だ。
そして、目の前には轍から赤土が見える山道が延びていた。地図には無い道だ。
間違いない。
あの谷は意図的に隠されている。
────────もしくは、あの谷にある『何か』が。
出来れば変人女に相談しておきたかった。
しかし編集長によれば、彼女は担当代理のおかじーを置いて出かけているらしい。
『何かどっかの代議士に会うとか云ってたらしいけど、何だろな?』
編集長のそんな声を思い出しながら、雑誌記者は山道に足を踏み出す。
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山道はそれほど険しいというものではなかった。
舗装されておらず轍以外から雑草がぼうぼうとはみ出しているものの、
明らかに人が何度も通っている山道である。
一度整備され、その後通行はするものの整備しなくてこうなったという感じだ。
不意に橋が見えた。
コンクリ製の丈夫そうな橋だ。何に掛かっているのかと思ったら、大きな溝が有る。
同じくコンクリで固められ、深さは先程の柵の高さよりもあるだろうか?
落ちたらまず間違い無く這い上がれないだろう。
中には山に降った雨だろうか、水がさわさわと音を立てて流れていた。
橋を渡ると、道路状況は急激に変わった。
先ずアスファルトで舗装され、脇には白いガードレールやカーブミラーが付いている。
急激に人工の匂いが濃くなった。
只、そのどれもが長期間放置された様に傷んでいる。
────ひび割れたアスファルトの間から草が生え、
────ガードレールは錆び付き、
────カーブミラーは割れていた。
その向うに、煌く水面。
「…………────有った」
思わず駆け足になり、はっきり見える場所へ移動する。
間違い無く、澱む水を湛えた湖だ。
その内湖面に沿って走る道路に出た。同じく傷んだアスファルト舗装。
見渡せば相当広い湖面だ。こんなものをよくもまあ隠していたものだと感心してしまう。
「ん?」
遥か向うに大きなコンクリの壁が見えた。
ダムの堤に見える。それを裏付けるように、錆び付いた道路標識が眼に入った。
────────【礼根沼ダム】。
そのまま歩いて、ダムの堤まで行ってみる。
堤の向こう側を覗く。
相当大きい。国内でも最大規模のダムでは無かろうか?
だが手すりやら何やらは錆び付いて傷んだまま。
管理所らしき扉は鎖で封鎖されている。
放水等の形跡は無い。下の発電所らしき建物にも人影は無い。
只水面の揺れる音と、緩やかな風に摺れる葉の音が風景を支配する。
鳥の声だろうか、ひょうひょうという声が聞こえる。
歩いて見て回る内更に気付いた。
来る時渡ったあのコンクリ製の大きな溝、こいつが山の等高線に沿って走っている。
丁度ダム全体を少し高い所から取り囲んでいる状況だ。
更に、その溝には至る所に小さな排水口が開いていた。
どうやら周辺の山全体に排水管が張り巡らされ、降った水は全て溝に流れ込むらしい。
そして溝自身はダム湖に一度も接続すること無く、その水を下流へ放流していた。
────即ち。
ダム湖に水が溜まらない様、流れ込まない様にされているのだ。
────隠蔽された道。
────放置された施設。
────ダム殺しの溝。
それらは全てこのダム湖を世界から隔絶し、封印する為に為されているとしか思えない。
雑誌記者は前に黒部ダムへ行った事が有る。心霊関係の取材だ。
一般的に、ダム建設は人と金と時間と浪費する国家規模のプロジェクトである。
黒部ダム建設時にも相当の犠牲が出たと聞く。
故に幽霊話も出るし、供養され、慰霊塔も建つ。
そして水利・発電だけでなく、観光スポットとしても地域に根ざした存在となる。
そのような犠牲を払ってまで建設されたダムを封印するとは、何故なのだろう?
不意に車のエンジン音がした。
反射的に雑誌記者は身を隠す。
何せ今不法侵入しており、しかもいかにもマズい場所だ。
茂みの中に蹲り道路の方を見ると、何台もの大型トラックが通過していく。
荷姿を見る限りタンク車らしく、危険物の表示が見えた。
それらの前後を警備するように四駆が土煙を上げて走っていく。
ダムの堤の傍、湖面近くの広い場所で停車するとタンク車が湖面へとホースを伸ばした。
どうやら何かをダム湖へ大量に放流しているらしい。
タンク車を警備するように取り囲む男達の手には、猟銃らしきものが見える。
格好からして警備員や警察ではない。
どちらかといえば猟友会とか、山狩りに出てきた一般人といった感じだ。
中には消防団の半被を着たおっさんも居る。
「────潮時か」
何かを隠してるのが間違いない場所で、銃を持った人間に出くわす。
これは危険この上ない。
様子からして自分が侵入してきたルートはバレていない模様だ。
あのコンクリの溝沿いに隠れながら移動して、元来た道を帰るのがいいだろう。
そろそろと薮の中を後じさりし、雑誌記者は溝の方へと踵を返す。
変なものと眼が合った。