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空の王様








スコーンと晴れた眩しい青空の下。



蝉時雨の森側の坂道を、自転車が一つ走っていく。

日に焼けたアスファルトの照り返しと白いコンクリの土止めが網膜を焼き、
頬を滑る風も夏の太陽に毒されているが、そんなものはお構いなし。
その子供はハンドルを巧みに操りながら、夏の坂を駆け下りていく。

カーブを曲がると視界が開けた。
遥か彼方に、最近出来たというインターチェンジがとぐろを巻いている。
その周囲には眼にも眩しい緑稲の絨毯。
只中へと、その自転車は降り向かう。

坂を下りると郊外の新興商業地区だ。
まばらに色々な大型商店が立ち並んでいるが、そこを通過する車だけは多い。
真新しい大きな十字路の信号を横切り、幹線道路の裏道へ回る。
すぐに道はむき出しの赤土となり、一昨日降った雨と轍ででこぼこの地面を晒していた。
凹凸でこけないようバランスを取りながら、その道へ入っていく。

横を走るのは有刺鉄線。
広がるのは草生した休耕田。
有刺鉄線の上の半ば塗装の剥げた看板が、地面に日陰を作っていた。
その見慣れた文字を横目に見ながら、惜しまず日陰を通り過ぎる。


────『(株)星川航空』



道を曲がると、コンクリとアスファルトで舗装された広場に出た。
そのまま広場を横切り、土手の傍にある大きい倉庫みたいな場所で自転車を停める。
額の汗を拭い、少しだけ開いた引き戸の隙間から中を覗いた。

「…………────じーちゃーん」

中は薄暗い。
鉄と油と埃と塗料の匂いがむっと鼻についた。
そっと足を踏み出し、静まり返った倉庫内へ入っていく。
散乱した工具。分解途中の機械類。
天井に少し開いた隙間から、陽光の梯子が鉄の塊達を浮かび上がらせる。
────ふと横を見ると、湯気を立てるコーヒーメーカーがあった。
その横のコルクの掲示板には、幾つものセピア色に褪せた写真が貼ってある。
腕組みをし、プロペラの前に並んで立つ男達。



倉庫の裏手で声がした。

そっと裏の勝手口に走って行き、裏手を覗く。
其処に有るのはだだっ広いアスファフトの広場────飛行場だ。
その片隅の土手の芝生にツナギ姿の男達が座り、空を見上げて歓声を上げていた。
「おっちゃーん!」
少年の上げた声に、数人の男が気付く。
「三谷のおっちゃーん!!じいちゃんはー!?」
どうやらその三谷という名らしいごま塩頭の男が、にっこり笑い無言で頭上を指した。

「え────〜〜…………早いよォう」
そう云うと少年は勝手口を飛び出し、上を見ながら男達へと駆けていく。
「しゃーねえだろー?お相手のご機嫌次第なんだから。
 夏休みだからってダラダラ昼まで寝過ごしてっから遅れるんだぜ?」
「違うもん、ちゃんと毎朝ラジオ体操行ってるもん」
「で、その後寝るんだろ?同じじゃねーか」
図星を突かれ、少年はふくれっ面のまま蒼天を見上げた。


天蓋は少しだけ傾いた午後の太陽以外、深々とした蒼穹のみが広がっている。

────否。

ちらちらと、蒼の中を舞う二つの影。
一つは赤、一つは白。

小さなプロペラ音が辺りに響き、赤の影が白の影を追っている。
緩急極るその軌道。タタタタタンと音がして、赤の影から何かが発射された。
発射されたものが飛行場の彼方で着弾し、赤い煙の列を作る。

白に追いすがる赤。くるくると目まぐるしく白と赤の軌道が舞う。
────と、ふと軌道から白が消えたと思った瞬間、


「────あ」
「あぁ」
「あちゃ────〜〜…………」
赤の影の翼の一端が折れた。
というよりも、切断された。
下で見ていた男達から溜息が漏れる。



ふらふらと揺れながら、天の高みより赤の影が舞い降りてきた。
それは、真っ赤なレシプロ。
セスナ等と違い、その派手な色の翼は機体の下方についている。
着陸用の車輪を出しながら、やや大きな音を立てて無事地面に還り着いた。

「まーた不時着かよ、今日はイイとこ行ってると思ったのになー」
ワイワイ騒ぎながら男達はレシプロの着地地点へと大股で歩いていく。
少年も慌てながら走ってその集団に付いて行った。
未だプロペラを回転させながらゆっくりと停止したレシプロに、声が掛けられる。
「会長ー!」
「かいちょ────!」
声に応じるようにコクピットが開き、中から飛行帽の人影が這い出してきた。
蓄えられた白いアゴヒゲ。日焼けした頬に刻まれた皺。
ゴーグルを両手で額に押し上げて、一言。

「は〜!やられたやられた!!」

その老人の顔を見て、男達はヤレヤレといった笑い顔で顔を見合わせる。
「じーちゃーん!!」
子供の声に、脱ぎかけた飛行帽の手を停めて老人が向き直る。
「おー!来とったかケータ!!」
子供もレシプロの翼の上に這い上がり、老人の目の前に顔を出した。
「じーちゃん、どうだったー?」
「駄目駄目だな────!ハハッ!!」
云いながら老人はコクピットを降り、子供を抱えて地面に下ろす。
男達が切断された翼を調べているのを見て、子供はそっちへと向かっていった。



飛行帽をようやく脱ぎ、老人は天を仰ぐ。
皺の中の瞳に映るのは、吸い込まれそうな群青色。


「かなわんなぁ、王様にゃあ」








───────青空を横切ってゆく、白い”機影”が一つ。











星川航空に隣接する二級河川、王越川。
川沿いには大きな土手が延びており、その上から飛行場が一望できる。


土手の木陰でアブラ蝉がジーと鳴いた。
その下で、老人がタバコの紫煙をくゆらせている。
今時珍しいツヤの入ったレトロなパイプを口に咥え、夏の木漏れ日に眼を細めた。



「じーちゃーん!」
土手の下からの声に蝉時雨が止み、気付いて声のしたほうを見遣る。
ひ孫のケータがえっちらおっちら、土手の草群の中を登ってきていた。
本当はひい爺ちゃんが正解なのだが、母親の影響で呼び名が爺ちゃんで固定している。
「おう、何ぞ用か?」
「事務の大森のおばちゃんがオヤツだって、サーターなんたらー!!」
見れば手に提げたビニール袋に茶色い塊が二つ入っている。
「おーすまんな、一緒に喰うか?」
「うん!」

ひ孫と一緒におやつを食べる。
真夏の盛りに油菓子を頬張るとは何とも場違いな気がするが、案外悪くない。
南国沖縄出身の菓子だからだろうか。まあ、後で絶対水が欲しいが。
「────ねえ、じいちゃん」
ケータがめい一杯菓子を頬張りながら尋ねてきた。
「何だ?」
「王様ってさ、強い?」

「ああ、強いなあ」
「どの位強い?」
「んー、少なくともグラマンやマスタングよりは強いなあ。勿論ゼロ戦以上だ」
「ふうん」

二人して水の足りない口をもぐもぐさせながら、眼下に広がる飛行場を眺める。
セスナが一機横切り、遊覧か何かの為に飛び立っていった。

「────いつになったら、王様倒せる?」
「んん?」
口の中の菓子を飲み込めず、含んだままの生返事。
ようやく飲み込みちゃんと答える。
「そうだなあー、お前がオトナになるまでにゃあ倒せるかなあ」
「ふうん」

また黙ってひたすら顎を動かす作業に戻った。
途切れ途切れだった蝉の声が、聞こえなくなった話し声の代わりに響き始める。
ゆるりと生暖かい風が吹き、木漏れ日がざわざわと揺らめく。
セスナのプロペラ音が、未だ遠くから聞こえていた。



「…………なあじいちゃん、あの話して!」
「ん?あの話?」
「あれ!王様に初めて会った時の話ぃ!」
「またその話か!何十回も話したろ、もう全部覚えてんじゃないか?」
「いーのー!」
ニコニコと幾度も語った話に期待を膨らませる孫に、老人は眉を八の字にして笑った。
齧りかけの菓子の最期のカケラを口の中へと放り込み、飲み込んで深呼吸。

言の葉一つ吐くと同時に、老人の意識は遥けく過去へと立ち戻ってゆく。







其れは60年以上前の話。

彼は未だ十代の若者だった。
空が好きで、鳥が好きで、高い所が好きで、飛行気乗りに憧れ目指していた。
そんな時の、あの戦争。

ひしひしと肌で戦争の空気を感じながら、航空隊の訓練を受けていた。
ある時、故郷の町が丸焼けになった。
立ち上る黒煙の彼方、群れ為す銀色の機影へ一矢も報えぬ己に憤慨した。
少しづつ居なくなっていく先輩達。そして教官からもたらされた通知。
────『特攻隊』。
無論自分は志願した。何より拒否する空気は無かった。
己の好きな空の中、鳥の如く空を飛び、あの憎っくき銀の影に一矢報いる。
これ以上の本望は無い。そう思った。


振られる日の丸に見送られ、片道分の燃料を積みゼロ戦は飛ぶ。
天候快晴、時刻は夕方。目標は太平洋上米軍空母。
それは無謀な、『夜襲』特攻。
夕闇の空へ、帰りえぬ旅に出る。

月齢三日月、暗い夜。
雲も無く天は暗く海は黒く、天地すら判然としない。
やがて先導により敵艦に辿りつく。他機の目印にと、先導機が先に特攻。
墨色の海に華やかな橙色の火柱が上がる。
────視認、目標空母。

突如の機銃に編隊は散開する。
敵機編隊が夜目に見えた。早すぎる、読まれたか、レーダーか、作戦漏れか。
光の列に貫かれ爆散する友軍の機体。炎を上げ堕ちる敵機の翼。
闇夜に双方入り乱れ、敵味方すら判別出来ぬ。このままでは────────

意を決し、機首を上げた。

急上昇する機体正面、其処に見えるは大きな弧月。
このままあの敵艦に、真上から突っ込んでくれよう。

────────三日月よ、介錯を頼む。





────弧月に光。

白い影。




瞬時に大きな機影と化し、自機の横を通過した。
────今のは何だ!?

機体を傾け宙返りをし、元居た戦闘空域へ。
相も変らぬ大混戦、機銃が飛び交い爆発が起き、敵も見方も堕ちてゆく。
────────否。
自分の横を通過した敵機が、鋭く重い金属音とともに真っ二つに斬れ堕ちる。
前方を横切っていた見方のゼロ戦が、白い影と衝突した瞬間爆散する。
『奴』だ。
動きが早すぎ捉えられぬが奇妙な姿。白い象牙色の翼に、脊椎骨の如き尾がなびく。
片翼が傾き全体像が見えた。
まるで三日月の様な鎌状の奇妙な羽。
巨大な眼窩に赤く光る宝玉の様な眼。

敵の新兵器かとも思った。
だがそれにしては攻撃が無差別だった。
追われる敵機が華麗に舞って必死で逃げるが、『奴』にはそれも通用しない。
突如、異様な軌道で旋回し回り込んだ。
というよりも、平行に移動した。
そして敵機との衝突の瞬間、その翼を前方に大きく動かし機体を一刀両断。
まるで空飛ぶ大鋏だ。


突如赤い光が投げかけられる。
何事か理解するヒマも無く、目の前に『奴』が居た。
思わず反射的に跳ね上げた左翼の下で、ガチンと鎌翼の触れ合う音。
────狙われている!
必死に逃げて回り込み、機銃を撃つが当たらない。
逃げても逃げてもありえない軌道で回り込まれ、機体ごと真っ二つにされそうになる。
まずい。もう燃料が無い。

いきなり大型機銃の横槍が入り、『奴』がこちらから離れる。
目標の空母からの攻撃らしい。怪物体に次々撃墜される友軍への援護だろうか。
その空母甲板から艦橋へと、あの赤い光が照らし出す。
『奴』が、空母へ目標を据えた。

一度大きく旋回し離れた後、『奴』の白い機影は真ッ正面から空母へ接近する。
嵐のような機銃の嵐。
まともな飛行機ならあの中で刹那も持つまい。しかし────
かわしていく。
くるくると。
あのありえない軌道で。
その翼を閉じ、完全に滴状の流線型となった体を廻し。
『奴』の白い流星の様な影の後を、機銃掃射の水飛沫が帯となって立ち上がっていく。


三日月の鋏が開く。

翼が傾き、
白い翼がくるりと回ったと思った瞬間、カン高い音がして、
『奴』が消えた。



既に燃料切れで着水していた自機から見ていても、何事か分らなかった。
だが一拍置いた次の瞬間、

空母が左右にズレた。
同時に空母後部で爆発が起こる。恐らく機関室からだろう。
その空母の姿はさながら手斧で断ち切られた薪を思わせ、思わず彼は呟く。

─────何て奴だ。あいつ、空母までブった斬りやがった。







「────で、その後王様は夜明けの光と共に空の彼方へと消えてった訳だ」

いつのまにやら、老人はパイプでタバコを吸っている。
「その後俺はやってきた米軍に拾われて、戦争が終わってよーやく帰国だ。
 で、何故か王様はその後駐留軍の飛行場のあったこの辺りに出没し始めた。
 駐留軍が帰った後、俺はここで航空会社を設立して飛行機を扱い、
 同時にまだ居座る王様との戦いを始めた訳だな。はい、これでおわり」
そう結んで、老人はパイプの灰を手のひらにポンとあけた。

「…………ふうん」
何故かつまらなさそうな声を上げて、ケータはまだ残る菓子を一齧りする。
ひ孫のこれまで見たことの無い反応に、老人は少々意外な顔をした。
「じいちゃん、それじゃ今まで王様に一度も勝った事が無いんだよね?」
「ん?おうそうだなー、王様強いからなー。
 多分俺とやりあってんのも、あちらにとっちゃ遊び半分なんだろうさ。ハハ」
少し笑って、ひ孫の顔を見て声が途切れた。
口を少し尖がらして、何処か不満そうな顔をしている。
「…………なあ、じいちゃん」
「ん、何だ?」


「じいちゃんは、何で負けるって分ってるのに闘ってるの?」



土手の下からケータ、ケータと呼ぶ声がする。多分母親が迎えに来たのだろう。
少しだけ老人を見ると、ひ孫は半分だけ減った菓子を片手に、土手を降りていった。
風に木陰が葉擦れ、鳴いていた蝉が小便をまいて飛んでいく。

ケータは土手の上の老人をもう一度見る。
老人の顔は、見えなかった。










「────え?ちょ」

見る間に、空港の電子運行表が真っ赤に染まっていく。
出航見合わせの文字だ。
周囲に集まっていた同じツアーの連中も一気に眉をひそめ、動揺が広がっていく。
「えーと、皆さん落ち着いて!騒がないで下さい!今確認とってきますから!」
不満が漏れる前に添乗員がぬかに釘を刺し、窓口へ走っていった。

「あらぁ…………一体どうしたの?」
どうやら妻は空気が読めていないらしい。こういう所は学生時代から相変わらずだ。
「俺等が乗る飛行機が急に見合わせになったんだ。俺等のだけじゃなく、他のも全部」
「え?それじゃあ」
「うん、このままだとグアムに行けんな」
「あらぁ大変ねえ、折角無理してお休み貰ってきたのに」
どうやら理解してくれたらしい。
まあ、事態把握しててものほほんな性格は直りはしないが。

「────てか、おいアユミはどうした?一緒じゃないのか」
「え?あら?」
妻が慌て始める前に、向うの喫煙所辺りでプギャーと子供の泣き声が起こった。
アユミだ。
ガラにも無く慌てる妻へここに居ろと言い残すと、娘の居るであろう方へと向かう。
確かに喫煙所の黒い看板前で泣いていた。
ワンピースの縁のレースも、丸くぷにぷにした顔も、全部ぐしゃぐしゃにしてのわんわん声。
惨状にヤレヤレと思いつつ、娘に駆け寄る。


「……────娘さんですか」


いきなり低い声で話しかけられ、顔を上げた。
看板ではない。
娘の横に、180cmはあろうかという黒い大男が立っていた。
夏だというのに全身黒いコートで覆われ、頭の上の帽子も真っ黒。
只年季の入った皺だらけの顔は白磁の様に真っ白で、長い鼻が突き出ている。

────外人か。

「私が喫煙所から出てきた時に目の前に立っていて、突き倒してしまいました。
 申し訳ない。ケガさせては無いと思いますが、どうですか?」
流暢な日本語に膨らみかけた警戒心がしぼむ。
見た所娘に異常は無い。
「アユミ、痛いトコあるか?」
柔らかい毛質のツインテールがふるふる横に震える。
「そうですか、良かった」
そう云いながら大男は帽子を取った。
広がった額に白髪のオールバック、落ち窪んだ眼窩の奥に、真っ青な瞳が見える。
白人の老紳士らしい。にしては態度も姿勢もかくしゃくとしているが。

「まだ幼いお子さんだけで出歩かせてはいけませんよ。
 迷子になったら飛行機に乗れない」
ぐずる娘の頭を撫でながら答える。
「いえ、すいません。まあ出航見合わせになってますから暫くは大丈夫ですけどね」
つい会社のクセで『スイマセン』が出てしまった。
心の中で頭を掻きながら運公表を見遣る。まだあの赤文字が光っていた。

頭上から答えが返ってくる。
「…………いえ、こちらこそ遅れさせて申し訳ない」
「は?」
「大丈夫です、よい旅を」

何処か違和感の残る受け答えを残して、老紳士は大股で出口へ去っていった。
アユミはようやくぐずりも止まり、鼻をスンスン言わせている。
「ホラ、お母さんとこ行くぞ」
「ウン」


向うの妻の居る辺りでは、添乗員が大声で何か知らせている。
所属不明の航空機の周辺空域への進入が確認された為、
一時的に飛行を取りやめているとの事だった。









「あー、加奈子に聞いたんですけど、ケータ何か学校で云われたらしいですわ」


そう云いながら、白髪の量も髪型も七三分けなおっさんが答える。
メガネにPCが煌々とワードを映し出し、おっさんはキーを両の人差し指でポチポチ押した。
星川航空の事務所内での朝の一コマである。

「何かって何ですか?」
恰幅のいいOL制服のオバちゃんが、コーヒーを配膳しながら尋ねる。
「何かってそりゃあ…………なあ?」
「ボクにゃ分りませんよ。それより社長未だブラインドタッチできないんですか?」
「未だパソコン初めて半年だぞ」
「もう半年です」
そう云いながら、やせぎすで頭髪だけもっこりしている青年がキーボードを叩いている。

コーヒーをすするなり七三分けのおっさんは注文をつけた。
「大森さーん、砂糖もう一本ー!」
「社長、また糖尿出てるんじゃ無かったんですか?病院からメール来てたでしょ」
「苦いコーヒーは呑めんのだ。お前も糖分とってちっとは太れ須藤」
「嫌ですよ若年糖尿病は」
青年とおっさんの掛け合いを、おばちゃんは遠目に見てくすくす笑う。
「あ、大森さんさt」
「とーにょ────!ひひひっ」
オバちゃんはそう云って給湯室に引っ込み、
青年は表情を変えずキーボードを叩き、
おっさんはカメムシを奥歯で噛み潰した顔としか思えない顔で画面に戻る。


「────そーか、ケータもそんな年か」
応接ソファで少しすすったコーヒーを見ながら、老人は呟く。
立ち上る水蒸気が白く渦巻き、ゆらゆらと空中に消えた。
「────確か、俺ン時もあれくらいでしたっけ。後太一ン時も」
「男は、皆通る道なのかも知れんな」
目じりをほんの少し細めながら老人は窓を見た。今日は案外曇っているらしい。
「まあ太助の育て方が悪かったせいで、太一は未だに直ってないがなァ。カカカ」
「私のせいにしないで下さいよ父さん、ありゃ太一の意思ですって!」

立ち上がり背伸びをすると、老人ははだけていたツナギの前を閉めた。
「さァア、今日も行ってくるか」
「会長今日も行くんですか?午後から雨って聞きましたけど」
「王様にゃ天気も都合も関係ないからな、晴れでも来ない時も台風で来る時だってある」
応接用テーブルの上に置いていた飛行帽を鷲づかみ、老人は裏口へと向かった。
その先は飛行機の有るガレージである。

「会長、気ィつけてー」
「あいよッ」







『申し訳ありません、初めての空域な為かはしゃぎまくってまして────』


レザー製の座席の上で、老紳士はイヤホンから担当の言い訳を聞く。
場所は移動中、黒塗りのベンツ中。
「いや構わん、AIの良好な証拠だ。
 経験値を積むいい機会だろう。
 わざわざネバダの砂漠から連れ出した甲斐があったというものだ。で、現在位置は」
目の前のノートPCの液晶に地図か映し出され、車の現在位置ともう一つ印が表示される。

「…………ほォ」
面白い事に目的地の直ぐそばだった。
「────周辺空域にストレンジャーは有るか?」
『遠方にジャンボが一機…………いや、小さい民間機がもう一つ。セスナじゃないですね』
「色は?」
「赤です。個人私有の機です」
────間違いない。
自分の探していた奴ではないが、こいつに出会えたとは好都合。
思わず吃音じみた笑い声が喉から漏れ、イヤホンの向うを困惑させてしまった。

「”彼”に伝えろ。その赤いのにご挨拶しろとな」







大気がおかしい。そう感じた。


長い間飛行機に乗っていると、大気の変化を敏感に感じるようになってくる。
今居る場所の大気だけでなく、向かう方の天気はどうか。自分の上や下はどうか。
大体そんな事が分かるようになっていく。
それは例え密閉されたシートに詰め込まれていても同じ事。
見える景色、機体の揺れ、操縦桿の重さ、肌の感覚。そういうものが経験と合わさって、
最終的な一つの感覚を形成するのだ。


その感覚が、おかしいと感じていた。

例えるなら、もくもくと入道雲を巻き上げる前線を通過する時に似ている。
湿った大気の中で、何処かがぴりぴりするのだ。
多分雷の静電気か何かが感じられているのだと思う。

だが、周囲の空に広がる雲はまだ普通の積雲だけだ。
午後から雨とはいえそんな兆候は見られず、ぽっかりと白い雲が浮かんでいる。
大気も乾いている。


只、ぴりぴりする。



今日は王様は来て無いらしい。
そんな中で、この妙な感覚。
────いつもと違うと感じたら、とっとと尻まくって様子を見たほうがいい。
昔、航空教練の教官に教わった言葉を思い出す。

『かいちょー、今日は王様来てないっスかー?燃料大丈夫ですー?』
三谷の声が無線から聞こえてくる。確かにもう燃料が心もとない。
『結構雲も出てきましたし、、今日は切り上げたらどうですー?』
「…………そうだな、今日はもう降りる。準備を────」


次の瞬間白雲を黒翼がよぎり、

イカヅチが走った。








勝手口が風も無いのにキイと開いたので、何かと思って振り向く。
ゆらりと侵入してくる熱気の中、俯きがちの小さな人影が事務所内を覗いていた。

「…………じーちゃん」
「あ、ケータか」
社長が七三分けをポリポリ掻きながら向かうと、その背後から大きな影が現れた。
「お客さん、近くに来たから」
ええ、ああとあっけに取られながらケータと男を交互に見比べると、男が帽子を取る。
銀色の白髪と鷲鼻の老紳士が現れた。
「こちらが株式会社星川高空で間違いありませんね?会長さんは居られますか」
流暢な日本語に面食らう。
「へ、会長?ええ、でも今会長上に上がってて────」
「構いませんよ」

社長が老紳士の相手をしている間に、ケータは脇に停めた自転車に向かおうとする。
「お、おい!ケータひーじーちゃんに会ってかないのか?上に居るぞ!?」
────ケータは振り向かずに、一言。
「いい」


「待っていた方が賢明ですよ、”ぼうや”」

最後の一言にカチンときてケータは振り向いた。
外人の老紳士は、夏の曇空を仰いでいる。
着込んだ黒いコートは暑苦しいだろうに、何故か冷ややかな氷のような印象を醸しだす。
白氷のような顔にクレパスのような笑みが浮かぶ。
「ツレが未だ、挨拶の最中ですから────」


積雲の向うから、轟音が聞こえた。







一度目、右翼の下を走った。

二度目、跳ね上げた左翼のあった部分を通過した。

三度目、旋回した所を狙い済ましたように、後方の雲から光が放たれた。


此方の旋回性能が予測よりも良かったらしく、寸での所で回避する。
いずれの攻撃も音といい光といい、まるで積乱雲内の稲妻を見ているようだ。
現在の天候は曇り、一部に晴れ間が見えている。
だが決して青天の霹靂ではない。
ゴーグルを通して老人の網膜に焼きつけられるその閃光は、見慣れた樹状ではないのだ。

一つの直線、まるで槍。

否、たまにTVで見るレーザーのようとでも云うべきか。
だがその外見以外、肌にくるピリピリ感といい身に応える衝撃波といい、特徴はまさに雷。
────直線状の雷だと?そんなもの聞いた事も無い!


今度は自機の軌道上にナナメに閃光が差し込む。
操縦席から見ればまるで交差しているようだ。
────そうだ、敵は複数居る。

二体か三体か、はたまたそれ以上か。
巧みに雲間に紛れて攻撃をくりだしてくる。


最初の攻撃を避けてから数度、敵影らしき影を見た。
始めはカラスかと思った。
大きさも丁度それ位で、翼(であればの話)を忙しげに動かしながら飛んでいる。
しかし飛び方が違った。鳥ならばあの大きさなら滑空の一つや二つはする筈である。
しかしソレは、異様な角度を描いて宙を移動した。
まるで燕、いや燕であってもああはいくまい。老人の脳裏に浮かんだのは、

────空の王様。

あの飛び方にそっくりだ。
大気の状態も重力の支配もものともせずに、浮かれ遊ぶようなあの軌道。

────同族か。
確かに王様が唯一無二の存在であるという保障は何も無かった。
だがあの機動と同じ動きをする全く別の存在が有るとは、驚きを禁じえない。
老人は、空の王様と長年この空域で戦ってきた。
こいつらは王様を迎えにでも来たのだろうか。
それとも仲間の遊びを見て、自分もやってみようと思ったのだろうか。


僅かな思考の隙を雷光の槍が破り貫く。
まるで雨の様に交互に翼を狙う閃光を必死の思いで回避していく。

読みきれなかった。

ナナメ後方から来た一撃で、尾翼が丸ごと吹っ飛ばされた。
否、”叩き斬られた”。


稲光も雷轟もしなかった。只、後方の積雲から飛び出した黒い影に一瞬で斬られた。
今のは何だ?あのカラスみたいなのとは訳が違う。
今急激に揺れ、バランスを崩していくこの機体と同じ位の大きさに見えた。
操縦桿がガタガタと震える。
不自然な姿勢で攻撃を受けた為か、姿勢制御もままならない。
墜落しないのが不思議な程────この状態で、帰り着けるか?


ホンの僅かな望みを掛けて眺める、雲の切れ目からかろうじて見える飛行場を、

遮るのは、黒刃の翼。










少年の眼に映ったのは、異様な光景だった。

上空で鳴り響いていた雷のような轟音が治まって数分、曽祖父の赤い機影が降りてきた。
ガレージや事務所から社員たちがわあわあと云いながら駆け寄ってくる。
見るも無残だった。
機体のあちこちに黒いコゲ跡が散らばっている。
胴体の尾翼部分は途中から無くなっていて、主翼も右翼が2/3になっていた。


だが、それよりも。

そんな状態の飛行機が、陸に帰りつけた理由。


────半壊した機体が、真っ黒な十字架を背負っていた。
否、”背負われて”いた。

始めは誰しもそれが何なのか分らなかった。
完成品のソレをその角度からその姿勢で見ることなど、例え業界人でも殆ど無かろう。
只一人、ソレが何か理解していた男が手をくるりと回して云う。
『良かろう、下ろせ』
その言葉に反応して、十字架はくるりと回って満身創痍の機体と平行になる。
そこで、ようやく皆合点がいった。


航空機だ。
漆黒の機体と翼の、流線型も滑らかな、未来的なデザインの。

何処と無くステルス爆撃機を連想させるが、操縦席らしきものは見当たらない。
変わりにその表面をいくつもの溝が走り、煌く光点がせわしげに動き回っている。


その黒い航空機のアシストでようやく赤い機体は地面に帰り着く。
同調のさせ方は神業としか言いようが無い。減速し、停止するまで付き合っていた。
皆が遠巻きにその異様な光景、”航空機を肩車する航空機”の姿を眺める。
黒い機体の何処からか、逆噴射ともホバーともつかない風圧が噴き出していた。
『ご苦労、離れろ』
老紳士の声と共に、ようやく黒い航空機が離れた。
それも何と、バックの後宙返りしながら。

赤い機体のフロントガラスが開き、中から老人が這い出してきた。
操縦席の縁に腰掛け飛行帽を引き剥がすと、自分の横に浮かぶ物体に眼を遣る。
────この機体を完膚なきまでに打ち砕き、
────更に情まで差し伸べてきた相手。
とても空の王様の同族とは思えない。


「…………────星川高空会長、星川勘太郎サンですね」
会長が呼ばれて振り向くと、あの黒コートの老紳士が居た。
「────あんたは?」
「私はアーノルド・グリンビレッジ、一応ボーイング社の開発主任をやっております」
「ガイジンさんか。アレの主か?」
また、氷の笑みが浮かぶ。
「ご明察」

老紳士の背後にあの漆黒の航空機が降りて来た。
強い風圧に会長のヒゲがなびく。
いつのまにか下部に昆虫の足のようなものが三つ突き出ている。着陸輪のようだ。
「まあ、パートナーと云った方がいいでしょうか。有人では有りませんので」
せわしげに光点が表面を走り、会長に一瞬焦点を合わせた後、また散った。
────空中から何かが舞い降りてくる。
あの妙なカラスだ。しばらく周囲をせわしなく飛び回ると黒い機体に合体する。
どうやら、こいつの一部だったらしい。



「ご紹介しましょう。私の開発したAI搭載型自立機動戦闘航空機、

 ────────通称『ルドラ』です。お見知りおきを」











「ちょ────ちょっと待ってくださいよ!何ですこれ!?」

社長がその上ずった声を響かせようにも、土煙とエンジン音が掻き消していく。
どうやってあの悪路を通ってきたのか皆目付かない真新しいトレーラーの列が、
次々ゴロゴロと空港の滑走路内へ侵入していた。

「あ、星川航空のシャチョさん?コレにサインして」
いつの間にやら横に停まったジープの窓から、乱暴に書類が突き出された。

車の窓から覗けば、どうも自衛隊幹部らしい制服姿が見える。
「これからココ二週間、ボーイング社と在日米軍が借り受けるそうだから」
「はあ!?」
手に取った書類を見ればアルファベットが波打っている。読めない。
「賃貸料は先払い、電気水道その他諸経費は後日まとめて…………
 あーもー兎に角後で契約内容連絡するから。ホラ、サイン、ここ、ボールペン」
「いやいきなり云われても!何の連絡も無しに接収なんてそんな────」
「”接収”じゃない、”ちーんーたーい”!大体あんたらワガママ云える立場?」

生白い、とても軍事関係者と思えない顔がイヤミげに歪む。
「あんたんとこの会長さんの遊び、縁故で見逃してもらってたの知ってる?
 こういう時ぐらいいつもの借り返さないと営業許可剥奪させるよ?」










ドロドロという音の響きに、陽光の梯子の中で埃が舞う。


音にも塵にも動じる事無く、老人はパイプをくゆらせながら椅子に座る。
老人の前には、赤い機体。
────翼折れ、尾を無くした哀れな姿。

破損部はそれらだけではなく、機体各部に焦げ後や歪みが生じている。
”満身創痍”もまだ聞こえがいい。
既に瀕死、オーバーホールしても飛べるかどうか分らないだろう。

エンジン部のカバーは外され、うねる鉄管やシリンダーがむきだしの内臓の様。
辺りには分解途中で放り出したかのように、工具やボルトが散らばる。
────その愛機の姿を、老人は表情も姿勢も変えず見つめていた。



後ろから声。
「随分と古い型ですね」

振り返らず、老人の答え。
「まだうるさいけど、外はいいのかい?」
「後小一時間で済みますよ。なるべく静かに作業するよう申し合わせておきます」

老紳士は背後の影から、隙間から差し込む夏日の中へと歩み出る。
くすんだ倉庫の影の中、照らし出される赤の機体に老紳士の指が触れた。
そのまま、歩きながら輪郭でもえどるように走らせる。
「────ゼロ戦、ではないようですね。エンジンが大きすぎる」
そのまま老紳士は機体の傍らを後じさりして離れ、画家の様にシルエットを見渡す。
「こちらのは詳しくないんですが……そう、武装からして紫電改、辺りですか」
「ご明察」
姿勢も表情も変えず、老人は呟き返す。
その態度にも何の臆面も無く、老紳士は語りかける。
「よくもまあ残っていたもんですね、破壊もされず風化もせずに、飛行可能状態で」

『GHQに結構鼻薬効かせたもんでな。山ン中のを拾ったんだよ』

突然の流暢な英語に老紳士は眼を丸くした。
『────拾い物、ですか』
「拾って、育てた」
「…………成る程、よく見れば結構改造してらっしゃる」
英語と日本語の応酬に、老紳士だけが倉庫の中でくくくと笑う。

「ですが、何ゆえ今時レシプロで?個人でさえジェット航空機を持つご時世に」
「コイツを維持するのに精一杯でな、ンなもん勉強するヒマなんざ無かったよ」
「今からでも飛行機なら買えばよろしい、技術なら学べばよろしい」
「一地方の中小企業の隠居にか?」
「出来ぬ事では無いでしょう。しないのならばそれは────”怠惰”だ」


老人の眉間に、ほんの僅かな皺が寄る。

「貴方の武装にしてもそう、何故ペイント弾ですか?紳士協定でも結んでらっしゃる?」
老人は云わない。
「倒したいのなら全力で向かわねばならんでしょう。出来なかったからこうなった」
老人は語らない。
「負けて負けて負け続けて、しまいに闘う事すら出来なくなる」
老人は答えない。
「あの時────フィリピン沖での”カミカゼ”のように」

初めて老人の眼が動き、老紳士を注視した。
差し込む陽光を黒いコートが全て吸い取り、只白い顔だけが薄暗い中浮かんでいる。
亀裂のような、白い笑み。



「私も居たんですよ、あそこにね」







次々と墜落していく航空機の上げる炎。

援護の為の機銃掃射の轟音。

艦橋では、異常事態に全員が混乱の極みに陥っている。


見上げればまた一つ、航空機が撃墜された。
ド真ん中から真っ二つにされ、切断面から火を上げながら海面へと堕ちていく。
既にどれが友軍か敵機かも判別できない。
この異常事態を創り上げた存在は、一介の見習い技師である自分にも判る。

きらり、きらりと煌きながら、漆黒の闇を舞い踊る白い影。
死神の翼。

一瞬眩い赤い光に照らし出され、白い影が此方へ来た。
艦橋からの絶叫めいた指令の元、武装全てを費やし作り出した水柱の列を全てかわされ、
船は斬られた。
甲板は傾き、よろめき、段差に足許をすくわれ海面へと落下する。
燃え盛る油膜を必死で避け、離れた所で顔を出し、手元に触れた板切れに這い上がる。

振り向けば、残骸が炎の海に沈んでいた。
その上に、やけに巨大な弧月が浮かんでいた。
そして、奴は踊っていた。



倒したい。

アレの地平へ到達したい。

一階の見習い技師は奮闘の末生き残り、本国へと帰還する。
大学へ入り、博士号を取り、軍に取り入り、極秘プロジェクトに関り、地位を確立し。
更に早く、更に強く。
役立つと思った事は全て貪欲に学んだ。貪欲に取り入れた。

そして遂に造り上げた黒い翼。
一晩中見上げ続け、己が眼に焼き付けた奴の写し身であり、そしてそれを越えるもの。

────そう、全ては『三日月の大鋏』
────秘匿名、”クレセントシャーズ”を倒す為に。









携帯電話らしき音が鳴った。二言三言通話した後、老紳士は戸口へ向かう。

老人の前を通り過ぎる前に立ち止まり、ぽつりと告げた。
「”クレセントシャーズ”は、私とルドラが倒します。
 ────負けるしか能の無い貴方は、そこでずっと見ているがいい」

開いた戸口から外の眩しい世界が覗き、油の切れた軋み音とともに再び隠れてゆく。
薄暗がりに閉ざされるまで、老人は喋る事は無かった。





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